教育の根源的な理念を考えるときには、この人のことを思い出します。この人を思い出すと、魯迅をいっしょに思い出します。
魯迅の『故郷』は、中学校三年の国語教科書の定番教材です。いままでにもう百回くらいは読んだことになるでしょうか。何度読んでも飽きない作品です。
『故郷』の最後には唐突に「希望」という言葉が出てきます。長いこと、これが分かりませんでした。どうしてこれだけ絶望的な状況を描き出して、最後に「希望」を付け足すことができるのか?
フレイレを読むと、「希望」という言葉は、絶望的な状況をくぐり抜けた人だけが使うことを許されるのだと思えてきます。ならば、魯迅が「希望」と書かなければならなかったわけも分かるように思うのです。
フレイレは、知識を注入すればそれがたまっていき学力となる、というような教育観を「預金型」と呼んで批判します。そこを抜けでないことには、社会の底辺に暮らす人たちへの教育は成り立たないのだと。
我が国でも、預金型教育観はいたる所に蔓延しています。とにかく長い時間学習を続ければ、水がたまっていくように知識もたまり、学力は向上するのだという、あれです。ほとんど誰もそれを疑ってはいないのではないか、とあきれるくらい。私の妹なんかそういうタイプでしたが、努力だけは人一倍するのに、結果はまったくついてこないのです。
そんなこと、教師なら経験的に嫌というほど分かっているはずなのに、なんだかそれは認めたくないみたい。何か都合の悪いことがあるんでしょうか?むしろ、生徒を低学力のところに押し込めておきたいのではないかと勘ぐりたくなるくらいです(預金型の教育は、必ずそのような結果を招きます)。
学力低下が問題にされたときのこと、覚えてますか。台形の面積を求める公式をいつ学習するかとか、円周率を3と教えるか、3.14と教えるか、といった類のことが盛んに問題とされていました。大学生が分数の計算できない、なんて話題もありました。
これらすべて、預金型教育観から生ずる論点です。学習~教育がそこで成り立っているかどうか、どのようなことが身につけば、面積とか円とか分数とかいったものを理解していると言えるのか。あるいは、その公式や計算の技能がどこで必要とされるのか。といったことはまったく問題にされませんでした。
学力低下論から、新しい学習指導要領を取り巻く、「ゆとり教育」をやめて「教えて考えさせる」教育へ転換しようという流れは、このように考えるとすべて虚妄です。もー、図書館に逃げ込んで、本の紙魚となることを目指すしかないよね。
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