西海市立S中図書館

2017年7月4日火曜日

世の中の動きにあきれ果てています。

実は、以下の文章を1週間以上前に書いたのですが、アップするのをためらっているうちに時間ばかり過ぎてしまいました。これも、書かない言い訳の一つかもしれません。


近代社会の根底には、言葉によって世界を理解し、そこから真理に近づくことができるという信念があったと思います。現実社会の政治も経済も、もちろん、この言語への信頼があってこそ成り立ってきた。

法治国家というのは、言語化された社会規範に依って成り立つ社会だったはずです。

記憶はあやふやになるし、後から都合のいいように改変されがちなので、言葉で記録するということが重視されたはずなのですが。

ニュースになっている一連の問題の中で、記録にはあるが記憶がはっきりしない、とか、記録にはあるがそれは事実とは違っているという言明が盛んになされています。

対抗する証拠が出されないままに、そんな言い訳がまかり通るのであるなら、言葉で記録することの意味はまったく無になってしまいます。

さらに、直接の当事者は、無実・無関係の主張を繰り返すだけで、肝心の内容についてはだんまりを決め込み、間接的な関わりしかない人たちから、あたかも証拠を提出した者の方が変だといわんばかりの、論点をすげ替えた一斉放火が行われたりします。

おかしなことを堂々と主張する大統領を選んでしまったアメリカや、トップの意に反することなど言うと存在そのものを消されてしまうかもしれない北朝鮮をまったく笑えない現状です。

本に書かれていることは一定の価値があると思って私たちは本に関わっているのですが、書かれたことは所詮紙切れの上の汚れかシミと同じこと。

大事なことは、テレビの画面でしたり顔をして自らの「正しさ」を繰り返し叫ぶことのようです。

これでは、いたずらをして見つかった子どもと同じレベル。彼らも、ときに、イノセンスを装った澄んだ瞳でこちらをじっと見つめ返しながら、白々しく「やってません」と言ってのけたりします。

この国は、古来からの中国の伝統を引き継ぎ、文字と文字によって書かれたものを大切にする文化を持っていると思っていたのですが、実は、それよりも文字にならない気分のようなものがはるかに大事にされていたんだと、遅ればせながら気づいた次第です。

それを無視する者はKYと呼ばれつまはじきにされる。

長く生きてきて、楽しいことばかり起こるわけではないし、常にものごとがよい方向にばかり進むわけではないことは重々承知しているつもりですが、さすがに昨今の世相を見ていると、しらけてしまってものを言う気にもなれない、というところです。

いや、それでも言い続けるぞ、という気力のようなものが失せてしまいました(生きる意欲がなくなった、ということではないので、念のため)。

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