昨日の3年生の授業で、友岡子郷さんの「跳び箱の突き手一瞬冬が来る」を取り上げました。お約束で、生徒に季語は何かと尋ねたら、しばらくクロームブックをいじった挙げ句に「突き手」ですという答が返ってきました。
調べたらそうなっていましたと言うので、その生徒の画面を見たら、AIのまとめのところに、確かに「季語は突き手」と書いてあります。
それを再現しようと思って、後から私が検索したら、同じものは出て来ず、「季語は冬」とまとめられていました。
私の想像ですが、生徒がYahoo!知恵袋あたりをうろうろしているうちに、「突き手」と「冬」の関連が出てきて、そこらをAIが結びつけて判断したのではないでしょうか。
ちなみに、私の検索で出てきた概要には、次のような説明がありました。
「この句は、立冬(11月7日頃)の季語として使われることが多いです。」
「『冬に入る』や『冬来る』といった直接的な表現ではなく、『冬が来る』という言葉を使うことで、より自然な印象を与えています。」
どちらも、一見もっともらしいことが書いてあるように見えますが、実は意味をなしていない文です。どうやら、このAIは、「俳句」や「季語」のことをよく理解していないようです。「冬が来る」も「冬来る」同様、極めて直接的な表現で、解説文が何を言いたいのかよく分かりません。
最近、ネットで検索すると、多くのことに、こうしたAIによる回答が出てきます。たくさんのページを渡り歩かなくても、そこだけで解決する問題も多くあります。いろいろ調べなくても、そこに簡潔なまとめがあれば、わざわざ紙の辞書を持ち出すまでもないと考える生徒が、圧倒的多数になるのは仕方がありません。複数のページを読み比べて考えるなどという面倒なことも一切しなくてよくなりました。解説文の意味が鮮明でなくても、コピペで答が書ければ、十分でしょう。
これは、多くの生徒にとっては朗報です。しかし、教師にとってはどうでしょうか。少なくとも、生徒が何か能動的に調べ、その活動を通して自発的な思考を促すといったことには極めてなりにくい時代になってしまったように思います。パソコンの利用を強く推奨しておいて、一方でそんな安直な使い方をするなと言っても、説得力に欠けます。
教育にICT機器を率先して取り入れてきた先進国の中には、紙の世界に戻ろうと方向転換したところも出てきたと聞きます。本来は学力の質の向上を目指していたはずのものが、学力の低下を招いてしまっているという実態がその背後にあるのではないでしょうか。
我が国も、早くそうした方がいいと思います。しかし、もうすでに手遅れなのかもしれないとも思います。もともと、近代の産業社会は、コスパ・タイパを追究する世界です。文字通り、時は金なりなのです。そんな中で、図書館で重たい辞典を引っぱり出してのろのろ調べ物をする方がいいんだと言ってみても、年寄りの繰り言にしか聞こえないかもしれません。
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