西海市立S中図書館

2025年7月18日金曜日

外国人問題

私の住む地方都市でも、さまざまなところで外国人が働いています。私の家の近所には、かなりの数の外国人が住んでいて、通勤のときなどによくすれ違います。全国的にも外国人の労働者は増えていて、コンビニはもちろん、レストランやホテル、農業労働者、工場労働者、漁業、海運、介護福祉等々、多くの職域で外国人の労働力なしには産業が成り立たなくなっています。

外国人が増えたのは、それだけ人出が必要だからです。もはや、必要とされる労働力を日本人だけではまかなえないのです。今回の選挙後、子育て世代の支援が極端に厚くなり、子どもを産もうというカップルが急に増えたとしても、その子等が働き手になるのは20年後です。今すぐに外国人にお帰りいただくわけにはいかないというのが大前提となる事実です。

今後も働いてもらわなければならないとしたら、そういう人達に、本当はあなた方にはここにいてほしくないのだと言える感覚が、私には理解できません。むしろ、何とか気持ちよく働けるように、懸命に条件整備をするというのがまっとうな対応でしょう。客のことを自分よりも大切にする、相手の立場に立って人を思いやるという「日本人の美徳」はどこへ行ったのでしょうか。

現在の日本は、他の先進国と比べると給与の水準が低く、円安の影響も相まって、外国から見たとき、働くのに魅力的な場所とは言えなくなってきているそうです。ならば、なおのこと、外国人が働きやすい環境を整えるべきです。報酬に魅力がなくても、安全で住みやすく、充実した福祉や教育を享受できるとなれば、それが来日する大きなインセンティブになるはずです。

税金や健康保険税を払ってもらうことも、外国人に働いてもらうメリットの一つです。外国人による健康保険のただ乗り論には、まったく根拠がないそうです。NHKによれば、日本人よりも、外国人の方が、納めた金額に対する使われた金額が少なかったそうです(働き手には若い人が多いから)。健康保険の財政は、外国人労働者によって助けられていることになります。

未来の日本を住みやすくするには、日本人ファーストではなく、外国人ファーストとでも言うべき政策を取らなければなりません。少なくとも、長く働こうと思う人には、永住権と、日本人と同等の権利を与えて、それを支えていくべきです。もちろん、同一労働同一賃金の原則も必要です。

教育に関しては、現在のところ、日本語が十分使えない外国人への対応は、お粗末な限りです。対応しようにも、中国語と韓国語以外のアジアの諸言語は、日本では学べる場所も限られていて、使える人材が育ちようもありません。早く手を打っておかないと、今後困ったことになりかねません。

2025年7月17日木曜日

公的サービスとしての教育

すでに数十年前から教育界にはびこっている過ちの一つが、産業社会の論理で教育を語ることです。産業社会では、収益を拡大することが第一の目的です。そこでは、なるべく短い時間で、少ない労力で結果を出すことが求められます。

子どもを育てることは、それとは根本的に異なった営為です。時間もかかるし、すぐには成果が見えないことも多くあります。すぐに結果が出なかったからといって、今やっている方法がダメだと決めつけるのは、短絡的です。むしろ、結果が出なくても、右往左往せず、淡々と日々の営みを続けていくべきなのです。コスパ・タイパでは、教育の価値は測れません。

こういう活動は、利益を目指さない公的サービスとしてなされなければなりません。営利が目的であれば、評価しやすい見かけの成果にばかり力が注がれ、教育の本質がないがしろにされることになってしまうでしょう。

例えば、アメリカの大学では、学校選択に際してランキングが重視されるあまり、ランキングを上げるための設備投資等に巨額の予算が使われ、学費の高騰を招いたと言われています。

少し前になりますが、全国でも一二を争う有名私立大学の英語の教授と話をしたことがありました。その教授は、学生が全員出席したら教室の座席が足りなくなると言っていました。全員は出て来ないことを前提にクラス編成がなされていたのです。その大学で足りないのであれば、他は推して知るべし。これは、公立の学校であれば、あり得ない事態です。(その後、国の基準が厳しくなり、事態は改善されたはずです。)

高校に関して言えば、地方の多くの私学の内実は、公立と比べてかなり見劣りのするものになっています。詳しくは書けませんが、これは、私がいくつかの高校を訪問して直接感じたことです。私立にいい学校がないとは言いませんが、それは大都市部に偏在しているように思います。

日本維新の会も、高校教育の無償化を掲げてきましたが、これは、公的サービスを私事化するための政策で、私が求めるものとは正反対です。無償化が決まった後、大阪の公立高校の存続が取り沙汰されていますが、維新のねらい通りにことが運んでいるわけです。

少し話がそれますが、維新は、無駄を削ると称して公立病院の規模を縮小してきました。そのため、コロナ禍では、重症患者を受け入れてくれるベッド数が大幅に足りなくなりました。私立の病院には、面倒なコロナ患者の受け入れをしてくれないところが多くあったからです。

その結果、他府県よりも大阪府でのコロナによる死者の割合は極端に高いものになりました。新聞報道によれば、東京都の1.5倍だったそうです。医療も、教育同様、公的サービスとしてなされるべきものなのです。

医療や教育、福祉といった領域では、産業社会の論理で無駄を削減すると、致命的な結果を招くことになりかねないという、いい実例を見せてくれたと思います。

2025年7月16日水曜日

参議院選挙の教育政策

選挙期間に入る前から、教育費の無償化というのが話題に上がっていました。今回の参議院議員選挙でも、大きな論点の一つになっているようです。

私自身は、教育費は、大学まで無償か、なるべく負担が少ない方がいいと思っています。特に、義務教育では、給食費も含めて、学校にはお金がかからないという状態が望ましいです。

私が大学生のとき、国立大学の授業料は、月三千円でした。その前は千円だったので、三倍の値上げでかなり高くなったと感じていました。今にして思えば、三千円でもタダみたいな学費です。学生寮が六千円。親が安月給で、兄妹が五人いたので、月の仕送りが三万円と、これは当時でもかなり少なめでした。でも、奨学金と合わせると、アルバイトもせずにやっていけましたし、本代も十分ありました。

授業料が安かったおかげで、私はさして苦労もせずに大学を出ることができました。できれば、大学はお金がなくても学べる場であってほしいと思います。

こういう個人的な経験からしても、教育の無償化というのは大事な政策だと思いますが、これを教育政策の中心に掲げられても困ります。無償にしたからといって、教育の質が変わるわけではないからです。

教育政策でもっとも求められるのは、教育の質を高めることです。そのためには、教員の定数増が必須です。ただ、現状でも教員のなり手が少なくて困っているので、教員を増やすには、待遇を大幅に改善しなければなりません。

教育は百年の計という言葉がありますが、残念ながら現在の日本の政党・政治家の多くは、この言葉を忘れてしまったようです。それをちゃんと実行に移せそうな政党・候補者に一票を投じたいと思います。

2025年7月2日水曜日

教員の不祥事

教員の不祥事のニュースも、残念ながら目新しいものではなくなってしまいましたが、この数日盛んに報道されている、児童の盗撮とその共有というのは、そんな中でも際だってひどいものだったと思います。

教員の中にそういう指向の人物が混ざってしまうこと自体は、防ぎようがありません。今回も、中心の人物は、子どもや保護者からの信頼が篤く、主幹教諭という教頭に次ぐ立場の教師だったと報道されています。それを他人が見抜くことは極めて難しいことです。

人間というのは、誰だって内面に様々な側面を抱えているもので、負の部分を持つ人物は教師にふさわしくないと排除していったら、教師のなり手は誰もいなくなってしまうでしょう。そのような狭隘な人間観は、教育の現場にふさわしくありません。それは、子どもが持つネガティブな感情や行動を全否定してしまうことにつながるからです。

では、どうすればいいのか。こうした事象が起こってしまう背景には、学校という場所の閉鎖性があると思います。相変わらず教室は担任の独断場で、他の教師はなかなか入って来ません。管理職ですら、校内を巡回していても、教室の中にまで顔を出すことはまれです。

学校を開かれたものにすべきだというのは、ずいぶん前から唱えられてきたことですが、一向にそうなりません。たぶん、教師はその方がずっと楽だからです。教師が一人しかいない教室では、どのようなやり方を取ろうが、誰にも文句を言われません。子どもたちは、何でも好きなようにさせておけば、とりあえず文句は言いません。

保護者も、授業参観日以外のときに教室に入っていくのは、歓迎されません。

絶えず複数の人間が出入りする環境であれば、こうした事象はずいぶん起こりにくくなるはずです。管理職に対して、盗撮などがなされていないか校内を点検するようにという指示があったようですが、まず目を向けるべきは人だと思います。悪さをしているかもしれないと疑って見よということではありません。目標管理シートのような紙切れではなく、その人がどういう人物で、どういう指導をしているのか、教師にもっと近い距離で接し、判断していくべきでしょう。

管理職はもとより、他の教師も、相互の教室の出入りが気兼ねなくいつでもできるようになるべきです。たまに研究授業をして教室を公開するのではなく(もっとも、それすらほとんど行われていないのが、多くの学校の実状です。)、常日頃から他の教室を覗いて参考にし、あるいは自分の授業を見てもらって助言をもらう。そうした同僚性が教師を育てます。こうした環境を作るのは、不祥事を防ぐためというより、まず第一に学校教育の質を高めるためです。でも、そういう環境の下では、児童生徒の盗撮といった事態は極めて起こりにくくなるでしょう。

今週に入って、さっそく県教委からの緊急メッセージが届き、性的な問題についての自己診断テストが配布されました。こういうものは、お役所のアリバイ作りに過ぎません。教師の心の健康を真剣に何とかしようと思うなら、おざなりな自己診断ではなくて、各学校に教師向けのカウンセラーを置くとか、いつでも第三者に心置きなく相談できるようなシステムを構築するしかありません。以前、県内の学校で、相談窓口に話をしたら、その内容が上司に筒抜けであったというケースがありましたが、そうならないような第三者機関が必要です。

人手不足も、教室が閉ざされる要因の一つだと思います。教師の質を高めるためには、待遇改善も必要でしょう。ですが、この二つは当面実現しそうにありません。限られた資源の中でなんとか事態を改善するには、原点に帰って、個々の学校が、教室を開いていく努力をしていくしかないと思います。

2025年6月20日金曜日

「AIによる概要」の不確かさと教育の未来

昨日の3年生の授業で、友岡子郷さんの「跳び箱の突き手一瞬冬が来る」を取り上げました。お約束で、生徒に季語は何かと尋ねたら、しばらくクロームブックをいじった挙げ句に「突き手」ですという答が返ってきました。

調べたらそうなっていましたと言うので、その生徒の画面を見たら、AIのまとめのところに、確かに「季語は突き手」と書いてあります。

それを再現しようと思って、後から私が検索したら、同じものは出て来ず、「季語は冬」とまとめられていました。

私の想像ですが、生徒がYahoo!知恵袋あたりをうろうろしているうちに、「突き手」と「冬」の関連が出てきて、そこらをAIが結びつけて判断したのではないでしょうか。

ちなみに、私の検索で出てきた概要には、次のような説明がありました。

 「この句は、立冬(11月7日頃)の季語として使われることが多いです。」

 「『冬に入る』や『冬来る』といった直接的な表現ではなく、『冬が来る』という言葉を使うことで、より自然な印象を与えています。」

どちらも、一見もっともらしいことが書いてあるように見えますが、実は意味をなしていない文です。どうやら、このAIは、「俳句」や「季語」のことをよく理解していないようです。「冬が来る」も「冬来る」同様、極めて直接的な表現で、解説文が何を言いたいのかよく分かりません。

最近、ネットで検索すると、多くのことに、こうしたAIによる回答が出てきます。たくさんのページを渡り歩かなくても、そこだけで解決する問題も多くあります。いろいろ調べなくても、そこに簡潔なまとめがあれば、わざわざ紙の辞書を持ち出すまでもないと考える生徒が、圧倒的多数になるのは仕方がありません。複数のページを読み比べて考えるなどという面倒なことも一切しなくてよくなりました。解説文の意味が鮮明でなくても、コピペで答が書ければ、十分でしょう。

これは、多くの生徒にとっては朗報です。しかし、教師にとってはどうでしょうか。少なくとも、生徒が何か能動的に調べ、その活動を通して自発的な思考を促すといったことには極めてなりにくい時代になってしまったように思います。パソコンの利用を強く推奨しておいて、一方でそんな安直な使い方をするなと言っても、説得力に欠けます。

教育にICT機器を率先して取り入れてきた先進国の中には、紙の世界に戻ろうと方向転換したところも出てきたと聞きます。本来は学力の質の向上を目指していたはずのものが、学力の低下を招いてしまっているという実態がその背後にあるのではないでしょうか。

我が国も、早くそうした方がいいと思います。しかし、もうすでに手遅れなのかもしれないとも思います。もともと、近代の産業社会は、コスパ・タイパを追究する世界です。文字通り、時は金なりなのです。そんな中で、図書館で重たい辞典を引っぱり出してのろのろ調べ物をする方がいいんだと言ってみても、年寄りの繰り言にしか聞こえないかもしれません。

2025年5月30日金曜日

司書・教員の不足

今年度の市内の司書の配置状況を見たら、司書が配置されていない学校が数校ありました。この世界も人手不足のようです。

教員の方は、慢性的な不足の上に、採用試験の倍率がどんどん下がってきていました。その対策として、採用試験の実施時期を前倒しした結果、今年度は倍率が上がったなどと県は嬉しそうに言っていますが、本県が第一志望でない人の数が増えただけで、実質的にはあまり変わらないだろうと思います。合格しても逃げる人が増えるだけなら、何のための前倒しか分かりません。

全国的にも、国が前倒ししてよいと言ったのにも関わらず、実際にそうした県は少ないのですが、本質的な改善には結びつかないことがどこも分かっていたからだろうと容易に想像できます。

根本にある問題点の第一は、待遇だろうと思います。本市の学校司書の給与は、自立して一人で生活して行くには圧倒的に足りません。それで複数校の面倒を見なければならない。余裕のある仕事はできそうにありません。(だから本の装備は業者に任せましょう。)

教員の方は、元々、残業手当や休日出勤の手当が付かない仕組みで、昨今、せっかくそれが改められようとしていたのに、結局、教職特別手当は残ってしまいました。この手当は、あくまでも突発的に起こる時間外勤務を対象としたものです。こういう手当を付けただけで、教員に毎日勤務時間の外で部活動の指導をさせるのは、労働基準法に違反しています。そんなことは、この制度ができたときからみんな分かっていたことですが、一向に改善されません。

特別手当の額は増やすことになりましたが、財務省の差し金で、毎年1%ずつ上げていくということになりました。一気に10%に上げてくれれば、もらう側も給与が上がったと実感しやすかったのにと思います。せっかく上げるなら、インパクトのあるやり方を取ってほしかったです。(実は、10%というのはトリックで、4%だったものが6%増えるということです。それをちびちび上げていこうというしみったれた政策です。)

そもそも、国として教育にかけるお金を増やす気がない。教育予算が、OECD加盟国中最低レベルでも、一向に気にしない。学校がブラック職場だと世間に知れ渡った上で、今後も、待遇はよくなりそうになければ、志願者が増えるわけもないと思います。

2025年5月29日木曜日

購入図書の装備の外注

今年度から、市内の小中学校に納入される図書の装備を、市内の3書店が一緒になって作った会社に委託することになったそうです。

過去には、そうした仕事は、学校ごとに交渉して、おおむね書店のサービスとして行われていました。そうしたやり方は、書店の利益を損なうので、好ましいものではないことは、今までにも何度かここに書いたことがありました。

それがちゃんとした対価を払ってできるようになるのは、結構なことだと思います。

若干納品が遅くなるのかもしれませんが、司書一人が複数校を担当する現状に鑑みれば、それは甘受するしかありません。装備なしという選択もできるようなので、一刻も早く並べたい学校は、覚悟を決めて自前でやるしかないですね。私が現役だったら、そうしたかもしれませんが、決してお勧めはしません。

追記                                             

図書のフィルム掛け等に要する時間は1週間程度のようです。それくらいなら私でも頼もうと思います。