西海市立S中図書館

2026年4月11日土曜日

田中達也展 みたてのくみたて ~長崎県美術館~

もうすぐ会期が終わるので、あわてて覗いてきました。ほとんど無限に続くかと思わせるような作者のイマジネーションは、junaidaさんに通じるものを感じました。

オリジナルには、食べられる野菜や食べ物なども素材に使われていて、撮影後おいしく食べたといった作者のコメントがあちこちにありました。毎日こうした作品を作って、オンラインで公開しているそうです。展示してあったのは、それをプラスチックで作り直したレプリカです。でも、元々出来合いのものを組み合わせてできた作品なので、オリジナルとレプリカの違いということは、ほとんど問題にならないように思いました。

一つだけ注文を付ければ、こういうポップな作品は、美術館というもったいぶった箱の中ではなくて、雑ぱくな街中の一角に置くのが似つかわしいだろうということです。また、写真撮影が許されていたため、せっせと写真を撮る人が多くて、人の流れが滞るということもありました。

「芸術(アート)」という言葉の意味も、大きく変わってしまいました。私は、中・高では美術部に属していたので、他の人に比べると多く美術館を覗いてきた方だと思います。

話がそれますが、高校生のときは、普段はほとんど美術室に顔を出さない顧問が、近隣の大都市まで展覧会に連れて行ってくれたりしていました。地元でめぼしい展覧会があると、それを観てレポートを書くというのが課題になりました。

その頃美術館に飾られていたものの多くは、作る側にとっても観る側にとっても特別の何かで、なにかしら感慨を呼び起こすものだけでした。昭和の時代までのそうした作品には、重厚な美術館の展示室がよく似合います。それを打ち壊そうとした作品もまた、美術館向けに作られたものでした。

それに対して、田中氏の作品は、「感動」とは無縁で、いいねボタンをポチッとしたくなるような感興を引き起こすだけのものでした。それがつまらなくてだめだと言いたいのではありません。「芸術(アート)」と呼ばれる世界が、すっかり様変わりしたのだと思い知らされたのでした。

21世紀の教育

前回の書き込みからだいぶ時間が経ってしまいました。その間に、新たな戦争が始まり、せっかく減税で安くなったガソリン価格は、減税分を吹き飛ばしてしまうような急騰を見せました。経済のグローバル化は、ジャイアンのような大統領が気まぐれで始めた戦争の影響が、短時間で一気に世界中に及ぶ結果を招いています。そして、その尻拭いは、影響を受けた国で勝手にやるべきだというのが、トランプ氏の言い分のようです。

こうした横暴に対しても、日本政府は明確に批判の言葉を口にしません。もちろん、ジャイアンの機嫌を損ねると、倍返しで反動が来るかもしれないので、うっかりそんなことは言えないという事情は分かります。一見、無事に通過したと思えた先月末の日米首脳会談でしたが、その後の報道によると、トランプ氏は、日本は何もしてくれないと明確に不満を表明しています。無事だったというのは、事態の表面だけを見て得た判断だったわけです。

第二次世界大戦の敗戦国であった日本は、アメリカの属国のように振る舞うことで生き延びてきたわけですが、これからもその道を続けるのでしょうか。勝ち目のないけんかをふっかけようというのではありません。これまでの関係は維持しながら、一方で他の多くの国々との関係を深めていく、それ以外に、この国が生き延びる道はないように思います。

国家間の問題には国際法に基づいて紳士的に対応すべきだという了解事項があったはずだと思っていますが、21世紀になってそんなものは雲散霧消してしまいました。ここに、大きな時代の変化を感じます。すでに、半世紀前から、変化への対応というのが教育の重要課題の一つでしたが、ここへ来て、その重要性の度合いがいっそう増しています。

世界は変わってしまいました。答えが定まらないどころか、そもそもちゃんとした問いを示すことすら難しい時代になりました。それに対応できない国家は、じわじわと滅んでいくしかありません。パソコンを子どもに持たせるとかいう手段の問題ではなくて、ルールも答えもどこにあるのか分からない世界の中で、どのように答えを導く筋道を立てていくか。大概のことにはAIが的確な答えを教えてくれるようになった今こそ、教育の質の根源的な変革が求められていると思います。

2026年2月13日金曜日

日本の伝統と中国

私は、長いこと国語教師をやっていますが、日本語の伝統の中には、中国の影響が深くしみこんでいます。今さら言及するまでもありませんが、私たちの使っている文字の起源は中国です。そして、漢字で書かれた大量の文章が、五千年も前から記録され続けています。日本ではまだ縄文時代だった頃からのことです。

そうした積み重ねの上に儒教がうまれ、これもまた日本にとても強い影響を与えました。孔子と同時代の諸子百家の思想も、現代まで読み継がれています。仏教も、日本には中国経由で伝わったため、日本で読まれるお経は、漢訳(つまり、中国語訳)のものです。

令和という言葉の元になった文章は万葉集にありますが、その文章は漢文(つまり、中国語)で書かれており、中国の古典の文章の焼き直しだったことは、以前ここに書きました。

古代日本の国作りのやり方が中国に倣っていたたことも、誰でも知っている史実です。日本という国についての古い記録は、中国の書物の中にあります。

日本の伝統は、遡れば中国の古代文明につながります。中国文明がなかったら、日本という国は今のような形ではなかったと言ってもいいくらいだと思います。その、日本文化の祖である中国に対しては、畏敬の念を持って接するべきではないでしょうか。

現代中国の政治のありようがあまり尊敬すべきものとは思えなかったとしても、たかだか百年にも満たない時間の中でのことです。中国五千年の歴史の中では一瞬のできごとに過ぎません。中国についてあれこれ取り沙汰するときには、このことをちょっとだけ思い出してほしいと思っています。

2026年1月30日金曜日

日本の対中政策について

高市さんの勇ましい発言以来、中国は日本に対して様々な制裁を続けています。アメリカからの援護射撃はなくて、むしろ発言をたしなめられたのではないかと思いますが、発言を引っ込めることはありません。右寄りの人からは、よく言ったと拍手喝采。中国なんかいなくても日本は大丈夫だ、むしろそっちの方がよいという声が聞かれるようです。

こういう意見は、ネトウヨ界隈では受けがよいでしょうが、そもそもの出発点のところで、現実を見ていない発言です。公表されている日本の対外貿易額の推移を見ると、20年前から対中貿易が第一位です。全体の20%を占めています。対アメリカは15%で二位。三位はオーストラリアで5%となっています。日本の経済は、中国とアメリカ相手の貿易で成り立っているのです。

トランプさんがどんなに理不尽な要求をしてきても、じゃあアメリカとの貿易はもうやめようという訳にはいきません。もちろん、中国も同様で、これから依存度を減らすという方向に向かうとしても、今すぐに関係を断つわけにはいかないのです。

私は、経済についてはまったくの素人ですが、こういう数字が示す事実を認識すれば、中国人は日本から出て行った方がよいといった類の単純な議論は、取り上げるに値しないということはすぐ分かります。

中国が台湾に軍事侵攻するかどうか。現実にはなかなか起こりにくいことだと思います。万一それが起きたとしても、おそらくトランプさんのアメリカは介入しません。日本はそれに単独で介入できる軍事力を持ちません。現状でも自衛官は不足しています。いくら国防予算を積んだとしても、すぐにそんな力を得ることはできません。国土のすぐ近くで起こることで、日本にとってはありがたくない事態ですが、米軍基地や日本の領土が直接攻撃されない限り、中国と台湾の間のトラブルに軍事的に介入する理由もありません。もちろん、台湾侵攻に際して、中国が米軍や日本を攻撃する必要もまったくありません。

高市さんは発言を撤回していませんが、その後、政府見解は以前と変わっていないと繰り返されているので、事実上撤回したのと同じです。それなのに、高市発言でさも中国に一矢報いたかのように騒ぎ立てている人たちの心理の根底に何があるのか、よく分かりません。

私の父親の世代(私の父は大正末年の生まれです。終戦時20歳。)には、中国人や韓国人に対する強烈な差別意識がありました。その意識は、近年だいぶ薄くなってきたと思っていましたが、まだ根強く生き残っているのかもしれません。

2026年1月27日火曜日

消費税減税の議論

物価高対策としての消費税減税に関しては、財源があるのかとか、そのために国債を発行することの是非が議論されています。しかし、ここには、決定的に欠けている視点があります。

それは、消費税が収入に対して逆進的な税であるということです。所得税は、収入が多くなると税率も高くなります。消費税は、その反対に、収入の少ない人ほど相対的に重くなる税です。

国家が、市民から税を徴収するのは、それを財源にしてさまざまな施策を実行するためですが、そのとき、所得の格差が是正されるような仕組みでなければなりません。そうでなければ、金持ちはどんどん豊かになる一方で、貧しい人はますます貧しくなってしまいます。そういう社会は、人材の流動性が低下し、治安が悪くなるなどして、必ずどこかで行き詰まってしまうでしょう。

高収入の人の税率が上がれば、そういう人たちのやる気がなくなるという意見がありますが、もしそうであったとしても、他方に数多くいる、ずっと貧しいままで明るい未来を描きようもない人たちはそのままでよいということにはならないでしょう。

消費税のような逆進的な税制は是正されるべきです。目先の物価高対策ではなくて、長い目で見たときの国家のあり方が問題なのです。未来の国家のありようを考えた制度設計にするべきだと思います。

どこかの税を減らしたとして、施策はそのまま維持したいとなれば、当然のことながら別のどこかで増税しなければなりません。企業にはもっと税を負担してもらわなければなりませんし、個人の所得税率も上げていかなければなりません。こういう政策は、確実に票を減らすので、どの政党も、特に選挙前には決して言わないと思いますが、誰にとっても住みやすい、この国の良さを今後もずっと保ち続けていきたいのなら、避けては通れない道です。

選挙に際して、国家百年の計を語ることのできる政治家の登場を待ちたいと思っています。

2026年1月3日土曜日

正月雑感(箱根駅伝大会)

例年、正月は、どこかに出かけて過ごすのですが、今年は、久しぶりに自宅で正月を迎えました。年末にせっせと料理を作ったので、三が日は、ひたすらそれを食べるだけの、正月らしい正月でした。

それで、箱根駅伝をいつになくじっくりテレビで観戦することになりました。

以前から気になっていたのですが、この駅伝では、コースを選手よりも多くの車両が走っています。先導の白バイや、テレビ中継車は仕方がないとして、チームの監督が乗った車が選手のすぐ後にぴったり付いて走るのはどうなんでしょうか。前後の選手の距離がそれほど離れていない場合、後ろの選手からは、多いときは3台くらいにもなる車両に阻まれて、前の選手やコースの先行きが見えにくくなっているのではないでしょうか。視聴者としても、テレビの画面の中で選手の姿が何台もの車と重なるのは、見にくくて仕方がありません。

それにも増して気になるのは、ときどき、車に取り付けられたラウドスピーカーから、監督の指導の声が響くことです。中には、激しく選手を叱咤するようなものもあり、練習ならまだしも、本番でこれをずっとやられるのはかなわないと思いました。数年前にそれがネット上で取り沙汰されたこともあったようですが、何も変わっていないように思えます。

この駅伝大会が、スポーツ大会というより、正月のお祭り的な要素が強いものになっており、テレビ局やスポンサーの思惑も多く入っていて、監督の怒鳴り声もそこに含まれているとは思います。優勝校の監督などは、黙っていたら絵にならないので、ときどきテレビ向けに声を出しているようにも聞こえました。それにしても、日頃の選手たちへの指導のあり方がどうなのかと思ってしまいます。

かつては、スポーツ選手を強くするには、監督やコーチが厳しい言葉や態度で鍛えることが当たり前と考えられていましたが、それは多くのスポーツで時代遅れと捉えられるようになりました。選手の意欲を大事にしながら、根性論ではなく、科学的なアプローチで鍛えていくというのが主流になってきたと私は思っていましたが、大学駅伝の世界はそうではないのか、という疑問を持ちました。

事前の練習の際にはいろいろ指導が入るだろうというのは想像できますが、本番ではレースの進め方は選手に任せてもらえないのでしょうか。他の駅伝やマラソンなどでは見られない光景です。同じ時間帯に放映されていた大学ラグビーの場合、監督は外から観戦しています。当然、作戦は自分たちで考えていかなければなりません。大学生にもなって、選手は一人前の人格とは見なされていないというところに大きな疑問を感じます。

大げさに言えば、駅伝大会に垣間見えるこうした指導のあり方は、日本のスポーツ界や教育界全体に根強く残っている、古くさい教育観の残滓のようにも思えます。また、そうした「厳しい指導」を歓迎する空気が、マスコミや視聴者の中にもあるのでしょう。

往路で劇的な逆転優勝を果たした選手たちや監督、自分たちの持てる力を最大限発揮しようとしていたその他すべての選手たちには、最大限の敬意を払いたいと思います。が、すごいレースを見せてくれたと手放しで感動してばかりはいられないと思ったのでした。

2025年12月31日水曜日

法然と親鸞

先月末まで、太宰府の国立博物館で「法然と浄土宗」という展覧会がありました。なかなか見応えのある展示でした。教科書に出てくるような国宝級の絵巻物を始めとする浄土宗に関わる資料が、数多く展示されていました。 

私は、教科書的な理解で、浄土宗も浄土真宗も、どちらも阿弥陀仏を信じれば往生できるという、同じような教えだと、漠然と思っていましたが、この展覧会を見て、その違いがよくわかりました。

法然が、当時力を持っていた日本仏教の諸派から脅威と捉えられたのは当然だと思います。もし、南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽往生がかなうのであれば、難解な経典を読み解き、山にこもって厳しい修行をすることが無意味になってしまいます。

政治権力にとっても、その内部に浸透しつつあった法然の教えは、権力を脅かしかねない危険思想に思えたことでしょう。そのため、法然と主要な弟子たち(親鸞もその一人)は、各地に流罪になってしまいます。

こうした抵抗から自分の宗派を守るために、法然は、弟子たちに、自分の教えをゆがめることのないように誓約書を書かせています。 

法然には多くの弟子がいましたが、そのうちの一派は、その後権力に近づき、江戸時代には徳川家の信仰を引き受けました。

親鸞は、法然の直弟子ですが、自分自身には弟子はいません。戒律も、彼にとっては何ものでもなかったようです。一方、浄土宗の方は、戒律も残したし、極楽往生のための条件もいろいろ必要だとしていました。極楽の手前の三途の川には、細くて長い橋がかかっており、それが描かれた絵が展示されていましたが、極楽にたどり着くのはなかなか容易なことではなさそうに見えました。

法然は、遊女たちに、自分たちのような罪深い者でも救われるのかと尋ねられ、きっと極楽に往生できると答えたそうです。そこをさらに突き詰めたのが、親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という考えです。 

法然の教えを、最もラディカルに引き継いだのが親鸞だと言えるでしょう。今日、日本国内では、浄土真宗が信徒数第一位、浄土宗は第二位となっています。親鸞の教えが、もっとも民衆に受け入れられたというわけです。かつて権力を持っていた者らが彼らを恐れたのは、理にかなったことだったと言えるでしょう。 

もっとも、今では、浄土真宗のお寺や仏壇は、金色に輝く絢爛豪華なものになっています。極楽浄土をイメージしたものなのでしょうが、これは、親鸞の求めていたものとは正反対のように思えます。思想はこうして、年月を経る間に変質していきます。どんなに優れた思想家であっても、それに抵抗することはできなさそうです。


どうもまとまりのない文章になってしまいました。年が改まりそうなので、ここらであきらめます。皆様、よいお年をお迎えください。