西海市立S中図書館

2026年7月8日水曜日

皇室典範の改正議論

高市さんは、女性初の総理大臣ということで、支持率も非常に高い状態が続いています。彼女を見ていると、私が教師になった40年くらい前のことを思い出します。ちょうど、元号が昭和から平成に変わる頃でした。

その頃はまだ、男性優位の世の中で、女性管理職は極めてまれでした。女性が管理職になるには、男性社会の論理に過剰に一体化し、飲み会の席でのセクハラは笑顔で受け流し(もちろん、内心は違っていたでしょうが)、男性以上に頑張り、場面によっては「男のように」振る舞うことが必要でした。

高市さんが睡眠時間を削って仕事に邁進していると自分でアピールする姿からは、当時の女性管理職が思い出されて、痛々しいものが感じられます。化石のような体質の議員だらけの中で、そうやって地歩を築き、トップに上りつめたのでしょう。

かつて、私は、しばらく教育委員会に所属しており、人権・同和教育や、「男女平等教育(当時は、まだそのような言い方がなされていました)」を担当していました。ちょうど、男女混合名簿(男子・女子をわけず、名前の順番だけで作る名簿)の導入が激しく議論されていました。校長会は、あからさまに反対はしませんでしたが、いろいろ屁理屈をこねて混合名簿では困ると言いつのっていました。

あれから30年ほど経って、さすがにどの学校も男女混合名簿を当たり前のように使っています。その後出てきた「男女共同参画社会」という言葉もすっかり定着して、現実の処遇はまだまだだとしても、考え方としては、生物学的な性差以外には、男女の間に差はないというのが常識になってきたと思っていました。

女性管理職も増えましたが、女性が、管理職だからといって、かつてのように肩に力を入れて突っ張らなくてもいい時代になってきたと思います。

ところが、昨今の皇室典範の改正議論の中で、我が国の一部には、男性優位の世界観がまだ根強く残っていることがあからさまになってしまいました。女性が天皇になったからといって、天皇家の血統が途絶えるわけではないのに、養子を入れてでも男子による相続が必要だと考えるのは、あからさまに差別的だと思います。高市さんにも、どうやらそうした考え方が深く染みこんでいるように思えます。

人々の考え方が変わるのには、長い時間が必要です。しかし、時代は急激に変化しました。伝統を守るという口実のもとに、天皇の跡継ぎ問題で、性別による異なった扱いが許されてよいはずもありません。

歴史上初めての女性総理大臣が、こんな女性差別的とも捉えられかねない法律を作ってしまったら、それこそ不名誉なことで歴史に名を刻んでしまいます。どうか、思い直して、初めての女性天皇誕生を可能とする改正の方向に舵を切ってほしいと願っています。

2026年7月7日火曜日

アクセス数増加

このブログの閲覧数が、もうすぐ50万になりそうです。最近は、羊頭を掲げて狗肉を売るの類のブログになってしまっています。でも、皮肉なことに、学校図書館のことばかり書いていた頃より、1記事あたりのアクセス数が、はるかに多くなっているのです。それで、トータルの閲覧数も増えました。多くの人に読んでもらえるのはとてもありがたいのですが、少し微妙なところではあります。

2026年7月1日水曜日

デジタル後進国 さらに続き

教員の研修のためのPlantというプラットフォームがあります。研修申し込みや、履歴の保存などができて、便利だろうと思って先日使ってみました。

私は、現在非常勤講師なので、常勤の人の勤務時間の最後に設けられた研修の時間は職場にいません。もちろん、オンラインの研修です。

プラットフォーム上には自分が受ける研修会の説明があります。マニュアルを読んで、その概要欄から当該の研修に飛べると私は理解していました。ところが研修会直前になっても、概要欄は空白のままで、どうやって参加したらよいのかまったく分からず、仕方がないので職場に電話して尋ねました。

すると、研修会の案内の文書にオンライン会議のURLが記載されているとのことでした。私は、てっきりPlant上から行けると思い込んでいたので、その文書は持ち帰っていませんでした。結局、電話でそれを読みあげてもらって、無事研修会に参加することができました。

市教委の研修会だったので、Plantにそれを登録した担当者が忘れていただけなのかもしれませんが、オンラインのプラットフォームを使っておきながら、紙の文書がないと参加できないという馬鹿げた事態に遭遇してしまったのでした。これもまた、デジタル後進国ならではの現象だと思いました。

2026年6月29日月曜日

辺野古抗議船転覆事故 続き

少し前に、この事故の一番の原因は、小さな船に定員一杯の人数を乗せたことだと私は考えると書きました。他のいろいろなことは措いて、海に出て行く構えが甘かったとしか言いようがないのです。

もう一つ気になったのが、事故直後の対応です。海上保安庁への通報が複数あったようですが、それは、みんなこの船に乗っていた高校生からのものだったというのです。高校生が、あらかじめ保安庁の118番という電話番号を知っていたわけではないでしょうから、スマホで検索するなどして調べたのでしょう。

2艘のボートのうち、1艘が転覆した後、もう1艘がそれに気づいて、引き返して救助に向かったという経緯にも問題を感じます。

救助する力もないのにそれをしようとしたという地元の漁師のコメントがニュースで流れていましたが、普通の人が、転覆事故が起こるような海況の中で救助に当たるのは、極めて困難です。まして全長6mくらいの小さな船外機船に9人も乗っていては、ベテランの船乗りでも救助活動などできません。とりあえず現場に引き返したくなる気持ちは理解できますが、二次遭難の恐れがあるので、やってはいけません(結果的に、二次遭難してしまい、死者まで出してしまいました)。転覆に気づいた後、船長がすみやかになすべきだったのは、海上保安庁への通報です。それが海の上での常識です。

報道によれば、これらのボートが出ていくとき、保安庁のボートから制止されていて、それを振り切って出かけた後の事故でした。だから、保安庁の船は、それほど遠くないところにいたはずです。事故後すぐに通報していれば、経過は変わっていたかもしれないと思います(少なくとも、二次遭難は起きなかった)。

うがった見方をすれば、(その日だけでなく、たぶん日頃から)保安庁の言うことに従っていないので、通報したくなかったのだろうと思ってしまいます。

海上保安庁は、遭難した人が誰であれ、全力で救難に当たります。事故が起きたら、一刻も早く通報すべきなのです。このボートの船長には、海に出ていく者としての心構えが足りなかったと思います。

この事故を政治的に捉える人が多いようですが、政治的立場を云々する以前の問題だと私は思っています。

2026年6月27日土曜日

政治教育は可能か

お隣の中国では、政治的な問題について、権力を持つ中国共産党の公式見解と異なった意見を述べることは許されていません。何が正しいのかを決めるのは党(あるいはそのトップ)で、学校教育の中でもそれは徹底されています。

第二次世界大戦で、日本が中国に対してどんなにひどいことをしてきたか、なんてことは、中国人にとっては常識でしょう。それにもかかわらず、中国からの観光客はピーク時3500万人を超えていたそうです。高市さんの台湾有事発言の影響で、中国は、日本は危険だから行くなというキャンペーンを張り、渡航を控えるよう圧力を掛けたため、ぐっと数が減りましたが、隙あらばすぐにでもまた復活しそうな気配が濃厚です。

口には絶対出しませんが、政府が言っていることが必ずしも真実とは限らないと、みんな分かっているのだろうと思います。

これは、中国の政治教育の失敗とも言える事態ではないでしょうか。

翻って、日本。右寄りの人たちの一部は、日教組が子供たちに政治教育をしていて、このままでは日本が社会主義国家になりかねないと言います。しかし、戦後ずいぶん時間が経ちましたが、革新系の政党が政権を取ったのは、例外的で、ごくわずかな期間に過ぎません。

日教組が、過去に、かなり偏った教育をしていたのは事実だろうと思います。私自身も、小学校6年生のころ、組合員だった担任から、スーパーの肉売り場などが映ったソ連の宣伝ビデオを見せられ、ソ連は(貧しいわれわれ日本人とは違って)とても豊かで、肉をたっぷり食べていると教えられた覚えがあります。それが政治的プロパガンダとして作られたもので、事実とはまったく異なる内容だったと分かったのは、それから何十年も経ってからでした。

日本では、保守政権がずっと続いてきました。日教組が、もし政治革命を目指して教育活動をしていたのなら、それは大失敗だったということになります。

道徳教育を強調したがる政治家もそうですが、右翼・左翼を問わず、こういう人たちは、人間存在を単純に捉えすぎていると思います。子どもに、学校教育を通して何かを注ぎ込めば、すぐその色に染まるはずだと信じて疑わない。知識を注入すれば子どもの学力が上がると考える、知識偏重の教育観とも重なる考え方です。

中国が、あまり生きやすくない国であることはたぶん確かです。外国に留学するなどしていても、政府の締め付けは強くて、だから、中国が世界中から批判されるような事態が起きたときには、その批判を批判する強力なデモが遠い異国の地で起きたりします。そういう風に振る舞っておかないと、国に戻ったときにやりにくくなるのだろうと、私は勝手に想像しています。

国会では、国旗損壊罪というのが審議されているようですが、国旗と言えば、私は、国が主催した研修会での光景を思い出します。全国から教員が集まった会場の壁に、国の職員が、こともあろうに、茶色のガムテープで国旗を貼っていたのです。

国旗に対して、私はそれほど特別の思い入れはありませんが、これにはあきれてしまいました。日本では、普通の人の国旗に対する思いはこの程度のものなのでしょう。そんな中で国旗損壊罪という法律を作ったところで、国民の国旗に対する感覚が変化するわけではありません。罰を設ければ国旗が尊重されるようになるという発想は、教育を政治思想を注入する便利な手段と考える思想と同じ程度かそれ以上に単純でお粗末です。

こうした政治的流れを見ると、日本の政府がお隣の国と似たようなことをやり出す可能性は十分あると思います。そうならないことを強く願っています。

2026年6月23日火曜日

辺野古抗議船の事故は教育基本法違反か

京都の私立高校が行った、研修旅行中の活動として辺野古基地移設工事への反対運動に使われていた船に生徒を乗せたことについて、文部科学大臣が、少し前に、この学校の活動は教育基本法に違反しているとの見解を示しました。工事の反対運動に生徒を直接参加させた(と見なされた)ことが、政治的中立を逸脱しているとの判断だったようです。首相はこれについて、過度な介入ではないという見解を示したそうです。

こんなことを国が言ったら、学校が萎縮してしまうのではないかといった懸念が伝えられていますが、そもそもここで教育基本法を持ち出したところに違和感があります。少なくとも、現場のやる気を大いに削ぐ発言であることは間違いありません。

学校が行う個々の具体的な教育活動の指針となるのは、まず学習指導要領です。この旅行を批判するとしたら、最初に述べるべきは、学習指導要領をどのように逸脱しているかということです。

基本法は、その名の通り、抽象的に理念を述べる法律です。最終的にはそこにつながるとしても、前提として、教育活動のどこに問題があったのか、学習指導要領に照らし合わせて、具体的な見解を示し、都道府県知事を通じて学校を指導するというのが最初に取られるべき方策ではなかったでしょうか。今日の学校教育にとって、重要な問題提起であるだけに、ただ事情を調査するだけではなく、現場と意見交換をしながら今後のあるべき方向性を探るといったやり方はできなかったのでしょうか。

事故が大きなニュースになったからと言って、そうした手続きを省いて、いきなりこれは教育基本法に違反していると外に向かって述べるのは、文部科学省が果たすべき役割を放棄してしまっているように見えます。問題があるとすれば、それはどこだったのか、丁寧に説明されなければ、改善もなされ得ないでしょう。

この学校は私学です。私学には、公立にはない独自の教育活動が許されているはずです。政治色の強い活動であったからといって、直ちに法を逸脱していると安易に言うことはできません。

こんな研修旅行はけしからんといきなり教育基本法を持ち出す文部科学省の姿勢には、保守的な与党の政治的パフォーマンスの色が強くにじみ出ています。こういうやり方は、学校教育を決して良くはしないでしょうし、それこそが憲法違反ではないかという論点も成立しそうです。

学校を萎縮させるとすれば、政治的なテーマを取り上げれば、教育基本法違反と言われかねないので、政治を外した無難なテーマしか扱わなくなるといった影響です。これは、すぐにでも出てきそうです(今日のニュースによれば、すでに出てきているようです)。学校というのは、お役所などと同様、アリバイ作りを大事にするので、無難に学校経営をこなそうと思えば、政治的な話題はそもそも取り上げていませんよ、というスタンスが大事になってきますから。

現行の学習指導要領では、生徒の主体性を育てることが重要視されています。それが、ただのかけ声でなく、真に教育現場の変革を求めるものであれば、学校や教師の側の主体性も強く尊重されるべきです。教師には上意下達を求めて、生徒にだけ主体的に行動せよというのは、あまりにも虫のいい要請だと思います。

2026年6月7日日曜日

変化の時代

5月になって、ずっと暑い日が続いていましたが、下旬にはすでに真夏の気温になりました。先月、そのことを同僚と話していたら、季節としての春がなくなって、服屋で春物が売れなくなったらしいという話になりました。服屋さんは、季節ごとに商品を入れ替えることで売り上げを伸ばしてきただろうと思います。四季がなくなるのは、その業界の人々に取っては死活問題でしょう。

我が国の気候の大きな特徴は、四季があることでした。それは、日本の文化にも大きな影響を与えてきました。その四季の変化が消失してしまうなどということは、数十年前まではまったく予想できないことでした(これが恒久的な変化かどうかはまだ分かりません)。こうなると、服屋さんは、存続のために新たな商売のやり方を考えなければなりません。

世の中が激しい変動の中にあることは、とっくに気づかれていたと思いますが、こんなことまで変わってしまうなどと誰が予想したでしょうか。

情報教育が重視され、小・中学校の教育課程にもプログラミングを学ぶ時間が導入されました。思いついたときには、それは先進的な取り組みだと信じられていたと思いますが、AIの急激な進化によって、すでに陳腐化してしまっています。

英語教育には国がとても力を入れており、中学校では国語の時間より英語の時間の方が多い有様です(3年間で英語420時間、国語385時間)。しかし、これまたAIの発達で、英語教師は不要になるかもしれないと言われ始めています。自分の英語をブラッシュアップするために、実際にAIを利用している人を見たことがありますが、下手な先生よりはるかに的確なアドバイスをもらえるように思いました。英語に限らず、外国語の使用場面でAIに助けてもらえるのならば、外国語を学ぶ必然性は著しく低下します。

こうした、想定できない状況の変化に対応する力をつけるには、学校教育に過度に依存しない姿勢が必要だと思います。その枠内で高い点数を取ることにばかり力を注ぐと、その枠組みが変わってしまったときに、対応できなくなるからです。

教師がこのことを受け入れるのは、自らの存在意義を否定することになってしまうので、とても困難です。この矛盾をどのように乗り越えていけばよいのか、学校教育は厳しく問われていると思います。