5月になって、ずっと暑い日が続いていましたが、下旬にはすでに真夏の気温になりました。先月、そのことを同僚と話していたら、季節としての春がなくなって、服屋で春物が売れなくなったらしいという話になりました。服屋さんは、季節ごとに商品を入れ替えることで売り上げを伸ばしてきただろうと思います。四季がなくなるのは、その業界の人々に取っては死活問題でしょう。
我が国の気候の大きな特徴は、四季があることでした。それは、日本の文化にも大きな影響を与えてきました。その四季の変化が消失してしまうなどということは、数十年前まではまったく予想できないことでした(これが恒久的な変化かどうかはまだ分かりません)。こうなると、服屋さんは、存続のために新たな商売のやり方を考えなければなりません。
世の中が激しい変動の中にあることは、とっくに気づかれていたと思いますが、こんなことまで変わってしまうなどと誰が予想できたでしょうか。
情報教育が重視され、小・中学校の教育課程にもプログラミングを学ぶ時間が導入されました。思いついたときには、それは先進的な取り組みだと信じられていたと思いますが、AIの急激な進化によって、すでに陳腐化してしまっています。
英語教育には国がとても力を入れており、中学校では国語の時間より英語の時間の方が多い有様です(3年間で英語420時間、国語385時間)。しかし、これまたAIの発達で、英語教師は不要になるかもしれないと言われ始めています。自分の英語をブラッシュアップするために、実際にAIを利用している人を見たことがありますが、下手な先生よりはるかに的確なアドバイスをもらえるように思えました。英語に限らず、外国語の使用場面でAIに助けてもらえるのならば、外国語を学ぶ必要性は著しく低下します。
こうした、想定できない状況の変化に対応する力をつけるには、学校教育に過度に依存しない姿勢が必要だと思います。その枠内で高い点数を取ることにばかり力を注ぐと、その枠組みが変わってしまったときに、対応できなくなるからです。
教師がこのことを受け入れるのは、自らの存在意義を否定することになってしまうので、とても困難です。この矛盾をどのように乗り越えていけばよいのか、学校教育は厳しく問われていると思います。