西海市立S中図書館

2025年7月17日木曜日

公的サービスとしての教育

すでに数十年前から教育界にはびこっている過ちの一つが、産業社会の論理で教育を語ることです。産業社会では、収益を拡大することが第一の目的です。そこでは、なるべく短い時間で、少ない労力で結果を出すことが求められます。

子どもを育てることは、それとは根本的に異なった営為です。時間もかかるし、すぐには成果が見えないことも多くあります。すぐに結果が出なかったからといって、今やっている方法がダメだと決めつけるのは、短絡的です。むしろ、結果が出なくても、右往左往せず、淡々と日々の営みを続けていくべきなのです。コスパ・タイパでは、教育の価値は測れません。

こういう活動は、利益を目指さない公的サービスとしてなされなければなりません。営利が目的であれば、評価しやすい見かけの成果にばかり力が注がれ、教育の本質がないがしろにされることになってしまうでしょう。

例えば、アメリカの大学では、学校選択に際してランキングが重視されるあまり、ランキングを上げるための設備投資等に巨額の予算が使われ、学費の高騰を招いたと言われています。

少し前になりますが、全国でも一二を争う有名私立大学の英語の教授と話をしたことがありました。その教授は、学生が全員出席したら教室の座席が足りなくなると言っていました。全員は出て来ないことを前提にクラス編成がなされていたのです。その大学で足りないのであれば、他は推して知るべし。これは、公立の学校であれば、あり得ない事態です。(その後、国の基準が厳しくなり、事態は改善されたはずです。)

高校に関して言えば、地方の多くの私学の内実は、公立と比べてかなり見劣りのするものになっています。詳しくは書けませんが、これは、私がいくつかの高校を訪問して直接感じたことです。私立にいい学校がないとは言いませんが、それは大都市部に偏在しているように思います。

日本維新の会も、高校教育の無償化を掲げてきましたが、これは、公的サービスを私事化するための政策で、私が求めるものとは正反対です。無償化が決まった後、大阪の公立高校の存続が取り沙汰されていますが、維新のねらい通りにことが運んでいるわけです。

少し話がそれますが、維新は、無駄を削ると称して公立病院の規模を縮小してきました。そのため、コロナ禍では、重症患者を受け入れてくれるベッド数が大幅に足りなくなりました。私立の病院には、面倒なコロナ患者の受け入れをしてくれないところが多くあったからです。

その結果、他府県よりも大阪府でのコロナによる死者の割合は極端に高いものになりました。新聞報道によれば、東京都の1.5倍だったそうです。医療も、教育同様、公的サービスとしてなされるべきものなのです。

医療や教育、福祉といった領域では、産業社会の論理で無駄を削減すると、致命的な結果を招くことになりかねないという、いい実例を見せてくれたと思います。

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