回想ばかりしててもしょうがないんですが、高校の頃のことで思い出したことがもう一つ。
私の通っていた高校の美術室は独立した建物で、職員室からはまったくの死角。休み時間に行くと、先輩が彼女といちゃついてたりして、純真な(?)後輩である私は目のやり場に困ってました。
先輩の絵には、彼女のヌードもあったりしました。さすがにそれは自宅で描いたものでしたが。すてきな絵でした。その彼女が妊娠して、二人とも退学になったのでした。二人は別々の学校に転校。間もなくその先輩は自殺してしまいました。
それを報道した新聞記事には、「進学の悩みで」とありました。勉強なんかそっちのけで絵と彼女にのめりこんでいた先輩に、進学の悩みがあったとは思えません。ひょっとしたら取材を受けたご家族の方がそんな説明をしたのかもしれませんが、そのときは、ああ、新聞というのは高校生が自殺すると「進学の悩みで」と、類型的な表現をして片付けてしまうのだと思ったのでした。
その後も、個人的な経験の中で、新聞やマスコミの言うことがいかに事実とかけ離れているか、報道というのは、自分たちの持っている枠組みの中にすべてをあてはめてそれでよしとする世界なんだと思い知らされたことが何度かありました。枠からはみ出たものは・・・捨てられるだけです。
大学に入ってからのことでした。同じクラスの友人に、霊感商法などで有名(?)な宗教団体に属している奴がいました。分厚い教典を寮の部屋に持ってきて、是非読んでみてくれと言われたこともありました。他の信者と一緒に、アパートを一棟借り切って生活していました。他の友人とそのアパートに押しかけて、一晩議論をしたこともありました。
そこで出会った信者の学生達は、その教団のうさんくささとはまったくかけ離れた、この上なく純粋ですばらしく優秀な奴らでした。こと信仰に関してはまったく頑なで、議論なんか成り立つはずもありませんでしたが。
オウム真理教の事件が起こったとき「あんな優秀な学生達がなぜあんなものにひっかかるんだ」という声があちこちで聞こえてきました。私は、ちっともわかってねーな、と感じました。彼らに対してちゃんと思想的に対峙できた人は、極めてまれだったと思います。
どちらのグループに対しても、いささかの共感を覚えるところ、なきにしもあらず、です。誤解されてしまうかな?彼らには責任がない、と言いたいのではありませんよ。
60~70年代の政治的などんちゃん騒ぎが終わった後の、閑散とした大学のキャンパスに、他に何を求めていけたのだろうかと思うのです。私が彼らの所へ行かなかったのは、彼らよりも多少不純な生き物であったからにすぎないのだと思ってしまうのですよ。私はといえば、ろくに授業にも行かず、夜通し(文字通り、朝まで)本を読み、音楽を聴き、友人と語り明かす日々でした(よく卒業できたなぁ、まったく)。
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