原題は”Merchants of Doubt”。もうちょっと、こなれた訳にならなかったものでしょうか。装丁もいまいち。でも、中身は濃いです。
そういう人たちを「科学者」と呼ぶべきなのかどうなのか。政治的判断が科学的真理に優先する人たち。そういう人たちが、これでもか、というほど出てきて、たばこの害や、酸性雨、オゾンホール、温暖化といった事象に「疑い」をはさんでいきます。
それは、彼らの戦略で、大声で「疑い」を唱えれば、多くの科学者が認めた事実でも、世間には「疑わしいこと」という印象を植え付けることができる。
誰のために?政治家?産業界?
結果、その対策がとられなかったり、対策の着手が遅れたりする。
しかし、こういう考えは保守的な人たちの専売特許ではありません。古くは、ソビエトが、そして近年では、左翼の思想を骨組みにして論を展開してきた過激なフェミニストがそうでした。
政治的な真理は、あらゆるものに優先する。
そういえば教育の世界でも、何より政治を優先する輩が闊歩してます。教育の世界にそれは似つかわしくないと言いたいのですが、教育そのものにはあまり興味なさそうに見えるそういう連中が権力握って離さないのです。おっと、話がずいぶんそれてしまいました。
図書館にはどんな本を置くべきなのか。「彼ら」の論理に従えば、「バランス」を取るために、反対の見解にも書架を割くべきだということになります。
確かに、反対意見は常に必要であるとおもいます。が、「科学」とはとうてい呼べないたぐいの本と、並べて置くのかどうか。
市内のM書店では、新興宗教や超常現象、自己啓発といった関係の本と、心理学や物理学の本が同じ棚に並べてあります。これってどうなの?
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