またまたこの学校の授業研究会に参加。2年生社会科の授業でした。
佐世保市の教育センターの講座も兼ねるということで、参観者がとても多かったのですが、子どもたちは実にのびのびと授業に参加していました。
座席には、前後・左右ともおおむね男女が交互に座っているのですが、どちらを向いてもスムーズに意見交換のできる雰囲気がすでにできあがっていて、グループでの話し合いになると、すっとみんなの頭が寄っていきます。
授業の中心課題は、1965年頃に起こった、この学校の生徒数の激減の理由を探ること。
研究会の中で、今日の授業をやったY先生から、思ったほど意見の交流が見られなかったという反省があがりました。
この授業の指導に来ていた北川威子先生、今ひとつ盛り上がらなかった理由を、「課題がやさしすぎたからよ」と喝破。
生徒たちが参照した「江迎町郷土史」に記述があり、それを「見ればわかるという課題」になってしまっていたこと。
授業については他にもいろいろ。北川先生、容赦なく批判されてました。
どんな授業を見ても「すばらしい授業でした」とおっしゃる、どこぞの指導主事とは大違い。スーパーバイザーというのはかくあらねば。
少子高齢化を取り上げて、ただ子どもの数が減った、高齢者が増えた、というだけでは現象をとらえただけ。じゃ、そのことで世の中はどう変わったのか。
ピーク時に1500人近くいた生徒が、年間300人規模で減っていったとき、学校や地域社会はどうなったのか。そこまでやって、やっとそれを普遍化・一般化することができる。
授業を変えるということは、私たちの教育観だけでなく、世界観をも変えることなんだと思い知らされました。
そりゃ、抵抗ありますよね。
教師というのは、とりあえず教えるふりをしておけば、仕事をやったと見なしてもらえるので、どうしても教え込もうとしがちです。いや、他人事ではありません。自らを省みての反省です。
私のやっている国語科なんか、特にそれが強くでる教科です。生徒が読み取り、自分の言葉で語ったことがすべてだ、というのが建前なんですが、生徒の食いつきがぱっとしないときなど特に、自分の解釈を教えて片付けたくなってしまいます。
そこをどう乗り越えるのか、私たちにとってのジャンプの課題です。肝を据えてかかれ、というのが北川先生の教えのようです。
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