NDCのことについて批判的な意見を述べると、それじゃ、あなたに代案はあるのか、と聞かれることがあります。そんなものありませんが、じゃ、意見を言うべきではない、とは考えません。
意見を言う前に代案を用意すべきかどうかは、場合によります。パソコンのOSやソフトに不具合があっても、代わりのプログラムを書けるわけないですが、黙っておくべきではないでしょう。
圧倒的大多数のみんなが使っているから、ウィンドウズが絶対いいOSだ、ということになるわけでもありません。
NDCに不具合があって、その代案を作る責任があるとすれば、日本図書館協会でしょう。ところが、これまでのところ、改訂は極めて保守的なものに終わっています。
昨年の夏に、代案を考えている人がいないかと、図書館関連の雑誌を探したことがありました。網羅的に検索したわけではありませんが、児童書の分類に関する単発的な試みが少し見つかっただけでした。
また、平湯先生を通して、分類体系を作り直すという仕事について話を聞かせてもらいたいと、西田博志さんに尋ねたら、もう無理だと断られたということでした。
ちなみに、平湯先生は、デューイの十進分類はとても美しい体系だ、という意見の持ち主です。
前置きが長くなりました。NDCが、言語の本来の意味から直感的に判断しにくい、利用者にとって必ずしも親切ではない体系になってしまった原因は、十進分類というその基本的な考え方にあると思います。
デューイがこれを考えたときは、パソコンもなかったし、膨大な量の本を整理するのに、3桁の数字だけでやれることに大きなメリットがあったと思います。NDCについても同様。
でも、物事を分ける、という作業をして、自然に、うまく十ずつのかたまりになるはずはありません。どうしても無理が生じます。そこは強引にまとめてしまった。
また、作られた当時の世界観がそこには色濃く反映されており、今となっては、それは時代錯誤と言ってもいいような代物です。
それに、物事は、分類体系を眺めながら変化していくわけではありません。むしろ、既存の分類には入らないようなところに新しい物が生まれてきます。
この変化の激しい世の中で、なるべく変化をさせたくない分類体系、というのは、その存在自体に矛盾があります。
未来、というタイトルをつけましたが、誰もがその不具合を感じつつ、これからも当分はNDCを使い続けていくことになるのでしょう。
もともと、本の管理のための体系ですから、開架の書庫で利用者が使いやすくするためには、別置を使ったり、一部、並びを変えたりしてやっていくしかありません。
そのためには、記号の桁数も、固定的に扱わず、場面によって使い分けるようなやりかたが必要になってくるでしょう。
利用者の視点で使いやすく、利用者にとって本が見つけやすい、というのが最も大事なことだと思います。
実質的には、パソコンによる検索が進歩したため、どのような分類がなされていようと、求めるテーマに関わる本は見付けやすくなりました。だから、NDCも生き残れると思います。ガラパゴス化しながらね。
しかし、私は、より使いやすい図書館をつくるためには、どこかで誰かが革新的な変革を行う必要があると思っています。あなたが、図書館の意義を理解する人であれば、こういう一般的でない意見にも、きっと開かれた態度で接してくださると信じています。
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