図書館部会で選書が話題になりました。
市立図書館の司書から極めて丁寧でまじめな選書のやり方についての講話。ほんと、司書の人ってまじめですね。教師もまじめだけど、ちょっと質の違うまじめさ(これ、ほめてるつもり)。
中で取り上げられたのが、ケータイ小説の可否について。例によって学校図書館法「健全な教養の育成」が引用されました。
「扇情的な描写」なんて言葉も飛び出して。懐かしいですね。「扇情的」。死語じゃなかったんだ!
でもね、「健全な教養」って、いったい何のことですか?
宮台真司さんが、大澤真幸さんとの対談で(『正義について論じます』、THINKING「O」第8号、左右社、2010)述べた言葉を引用します。
「僕がなぜ性愛について書くのか・・・理由の一つは、嫉妬に駆られた行動の如き、どうにもならない『超えられない壁』を体験できるから・・・知識では超えられない情動の壁があり、それは経験的に克服するしかないのです。」
宮台さん、嫌いな人も多いかもしれませんが(すぐ人をバカ呼ばわりするんだ、この人)、いいこと言ってるでしょ。文学にとって性愛が欠かせないテーマであるのも、同じ理由。
中学生ともなれば、そのあたりでじたばたするのは当然。ひょっとしたら、文学作品が知識と経験のギャップを埋める助けになるかもしれません(まったく、ならないかもしれません)。
中国で村上春樹が人気があるのは、一つには「性情報のメッセンジャー」的な役割にあると張競氏が書いてました(『海を越える日本文学』、ちくまプリマー新書、2010)。それはブンガクの読み方として邪道だなんて言わないでね。
児童・生徒にとって「健全な教養」が何かというのは議論があるところでしょう(ということは、さっきの法律の文言を引いても、何も言っていないのと同じということにもなります。何となく安心してるだけ)。でも、私の周りにいるケータイ小説大好き少女は、みんな極めて健全です。
前任校では、マジメの上に○○が付く、といった感じの優等生が、「先生、これ感動しました!!!」と、わざわざ言いにきたこともありました。
大人がケータイ小説から受け取るものと、子どもたちが受け取っているものは、案外、まったく違っているのかも。
これしきのものでどうにかなるほど、今どきの子どもたち、ヤワじゃないですよ。ケータイ小説より、テレビの方がよほど扇情的。
「健全な教養の育成」のために、みんなでテレビ捨てましょう!
って、誰も(?)言わないのよね。
結論。ケータイ小説だ、というだけの理由で敵のように扱うのは(本も、それを読んでる子どもたちも)やめましょう。
あー、また論争的な書き方してしまった。ムカツク~とか思った人、ぜひ反論を書いてね。>某県教育委員会生涯学習課参事様(読んでないか)
長崎県内の高校の場合,
返信削除1.携帯小説は購入しない … 27校
2.内容によっては購入する … 52校
3.制限はしない … 12校
となっています。
(平成22年度ライブラリーフェスティバル県大会の事前アンケート結果)
地理さん、ありがとうございます。案外「1」が少ないんですね。ほっとしました。
返信削除文面からお分かりかと思いますが、私の周囲にはアレルギー反応起こす人多いんですよ。
生徒の実態とまったく噛み合ってないというのが一番困ったことかもしれません。中・高の差というのも多少はあるのかな。