私は、高校生の頃は美術部に所属していました。さすがに強烈な個性の持ち主ばかりが集まっていましたが、顧問の先生が一番強烈だったかもしれません。
その先生は、水泳部の顧問も掛け持ちしていて、放課後、美術室にいることは珍しかったと思います。美術の授業のときですら、課題を出すとどこかに消えてしまうこともよくありました。今では考えられないことかもしれません。
それなのに、なぜか人の個性を引き出すのがうまかったと思います。授業のときの生徒の作品がめきめきとよくなっていたことを覚えています。
ときどき、美術部のみんなで汽車に乗って、その先生と博多まで展覧会を見に行っていました。その先生は、列車の中でよく歌を歌っていました。その頃見た絵は、今でもありありと覚えています。
たまに、放課後美術室にやってきたかと思うと、みんなを集めて、最近見た映画の濡れ場を解説したりしていました。美術部なので、圧倒的に女子生徒が多かったのですが、これも今ではあり得ないことかも。
彫刻が専門の先生でしたが、夏休みに、展覧会に出す等身大より大きな作品を美術室で作っていました。私もその横で、同じ手法で作品を作りました。あまり細かいことを指導された覚えはないのですが、私は、すっかりその気になって黙々と制作にいそしんでいました。
ときどき、TOEICの勉強をしていることがありましたが、私が高校2年生になった年、突然アメリカに留学してしまいました。彫刻専攻の大学院に行くということでした。そのとき、その先生は27歳でした。
若い先生達が寄稿していた『壁』と題したガリ版刷りの文集がありましたが、仕事の上で「壁」を感じていたことが留学に結びついたのかもしれないと、だいぶ後になって思い至りました。
私は、高3になると、大学の美術科を目指してデッサンの練習を始めましたが、夏頃、父親の強烈な反対にあい、あきらめて文学部に進むことにしました。その先生が留学から帰った後、美術部のみんなで遊びにいきましたが、お前は間違った進路を選んだと言われてしまいました。それもまたかなり強烈な一言でした。
その先生は、水泳部の顧問も掛け持ちしていて、放課後、美術室にいることは珍しかったと思います。美術の授業のときですら、課題を出すとどこかに消えてしまうこともよくありました。今では考えられないことかもしれません。
それなのに、なぜか人の個性を引き出すのがうまかったと思います。授業のときの生徒の作品がめきめきとよくなっていたことを覚えています。
ときどき、美術部のみんなで汽車に乗って、その先生と博多まで展覧会を見に行っていました。その先生は、列車の中でよく歌を歌っていました。その頃見た絵は、今でもありありと覚えています。
たまに、放課後美術室にやってきたかと思うと、みんなを集めて、最近見た映画の濡れ場を解説したりしていました。美術部なので、圧倒的に女子生徒が多かったのですが、これも今ではあり得ないことかも。
彫刻が専門の先生でしたが、夏休みに、展覧会に出す等身大より大きな作品を美術室で作っていました。私もその横で、同じ手法で作品を作りました。あまり細かいことを指導された覚えはないのですが、私は、すっかりその気になって黙々と制作にいそしんでいました。
ときどき、TOEICの勉強をしていることがありましたが、私が高校2年生になった年、突然アメリカに留学してしまいました。彫刻専攻の大学院に行くということでした。そのとき、その先生は27歳でした。
若い先生達が寄稿していた『壁』と題したガリ版刷りの文集がありましたが、仕事の上で「壁」を感じていたことが留学に結びついたのかもしれないと、だいぶ後になって思い至りました。
私は、高3になると、大学の美術科を目指してデッサンの練習を始めましたが、夏頃、父親の強烈な反対にあい、あきらめて文学部に進むことにしました。その先生が留学から帰った後、美術部のみんなで遊びにいきましたが、お前は間違った進路を選んだと言われてしまいました。それもまたかなり強烈な一言でした。
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