しばらくブログを書いていませんでした。書くことがなかったわけではないのですが、諸般の事情をおもんばかって書けず(書かず)じまい。
歳を重ねても、己の欲するところに従いて、とはなかなかいかないものです。
久しぶりに書こうと思ったのは、図書館のことではありません。遠い関わりがないとはいえませんが。
アメリカの大統領選挙の結果をやっとトランプさんは受け入れ始めたようですが、選挙後の、多数のアメリカ人や、一部の日本人の反応は驚くべきものでした。
どこをどうひねっても、大規模な不正選挙があったなどとは思えず、トランプ氏の側からも具体的な証拠はまったく示されませんでした。もしそんなことがあったとしたら、アメリカという国家の成り立ちを根本から揺るがす大事件です。それにもかかわらず、不正があったと信じ込んでいる日本人が一定数いたことを、どうしても理解できません。
ネット上に、正体不明のそうした輩が出没することは分かります。だけど、ある程度知的な資産を持っているはずのもの書きの中に、そうした言説をいまだに言いつのる人がいます。
そうした人が本気で信じているのかどうかは知るよしもありませんが、ショックだったのは、私の知人にそういう人がいたことです。
私より年上で、一流大学を出て、誰でも知っているような一流企業に就職し、その後はコンサルタント業をしていた人が、退職して郷里に戻ってきていたのですが、その人も、アメリカ大統領選挙の不正を堅く信じていました。
郵便投票の不正に言及があったので、郵便投票は、サインで本人のものかどうか確認されているようだと言うと、それならサインした投票用紙を買ったに違いないと言うのです。何の根拠もない妄想の世界です。
そこから話がいろいろ発展していったのですが、その過程で、アメリカに押しつけられた憲法は改正するべきだし、学校というのは、これまで嘘の歴史を教え続けてきたけしからん場所だという話になりました。
憲法を改正するべきだという議論はしてもかまわないと思いますが、彼の中には、日本は、敗戦後、その憲法に嫌々従っていたとのだという思い込みがありました。でも、それは嘘だと思うのです。
思えば、私が子どもの頃は、まだ街のあちこちに戦争の名残が残っていました。でも、アメリカのせいでこうなったので、いつか必ずアメリカに復讐してやるとは誰も言いませんでした。
安保条約には反対の声も上がりましたが、70年以降、それが当たり前になり、常にアメリカの要求に隷従した政策を実施する日本政府に、お前達は非国民だという声を投げかける人は、ゼロではなかったかもしれませんが、ほとんどいませんでした。今でもその政策は踏襲されています。
現在、一定の勢力を持つこうした言説が強力になったのは、実はバブル崩壊後のことです。
例えば、南京大虐殺はなかったという主張がなされるのですが、私は、その主張にはまったく賛同できません。私は歴史の専門家ではないし、歴史的な事実を詳細に調べたわけでもありませんが、中国大陸で戦った兵士の多くが、そこで実際何をやってきたのかについて、語りたがらなかったというのは事実です。
そんな中には、中国に申し訳ないことをした罪滅ぼしのためだと言って、日中友好に奔走する人もいました。
「南京大虐殺」と呼ぶべき歴史的事件があったかどうかは、私には断言できません。しかし、こうした人々の声を聞くと、日本軍が大陸で相当ひどいことをやってきたのだろうということが容易に想像できます。
こうした事実を無視して、ありもしなかった事件をでっち上げるのはいかがなものかという言説を言いふらす人たちを、私は信用できません。
それは私の個人的な感慨に過ぎないかもしれませんが、こういう意見に賛同する人が多くいるという事実が、私には理解できません。
折から、マスコミは、桜を見る会の前夜祭の費用負担を巡る安倍元首相のニュースで持ちきりです。ホテルが事前に見積もりを出していたなんて、当たり前すぎることで、それなしに大規模なパーティを開くことなんかできないことは、まともな大人にとってはわかりきった話です。
ここから安倍氏は、一連のできごとはすべて秘書が勝手にやったことだという主張をしていくのでしょうが、法的な責任を問うことが可能かどうかは別として、安倍氏の言い訳が嘘だということもまた、自明のことでしょう。だけど、安倍氏は決してそれを認めはしないだろうし、政治生命が絶たれることもないでしょう。
まっとうに議論をするとか、そこで示すエビデンスとかいう事柄を、まったく無にしてしまう世の中の動きです。
こういう世の中で、本を読むというのがいったいどういう意味をもつのでしょうか。人間が言葉で作り出す世界というのは、所詮、こうした現実には勝てないのでしょうか。そういう思いに囚われてしまいます。
知識とか教養といったものは、しゃれた住宅の装飾のようなもので、なかったからといって生きていけないわけではありません。知識や教養の価値がなくなる世の中の、私たちはすでにただ中にいるのかもしれません。
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