先日紹介した道徳の教科書に、「父は能楽師」という一文があります。これも、学習指導要領の「我が国の伝統と文化の尊重」という内容項目に沿った教材です。
父親が能楽師であるという中学生が、学校に呼ばれて能にかける思いを述べた父親のことを見直し、それまでは思いもしなかった、父の跡を継ぐことを考え始めるというストーリーです。
この教材の中に、彼の父親が、息子の学校で中学生に話をした折、能のビデオを見せ、それに中学生たちが感動するという場面が出てきます。能を見て感動する中学生がまったく存在しないとは言いませんが、能を見せられたら、99%の生徒が退屈するでしょう。動きは様式的で分かりづらく、何よりテンポが極めて遅いからです。話の筋も、謡を聞いただけで理解できる生徒はほとんどいないでしょう。つまり、これも、まったく説得力のない作り話だということです。
しかも、この場面では、ご丁寧に、能をビデオで見せたことになっています。ずいぶんお安い伝統と文化の尊重です。
前に取り上げた、十二神将像のことを書いた道徳教材同様、この文章の書き手が、伝統と文化の尊重というテーマを、この上なく安直に捉えていることが分かります。
これは、伝統を守るとか国を守るといったことを声高に叫ぶ人たちの多くに共通する特性です。実際にはそれほど伝統に親しんでもいないし、大切にもしていない。大向こうに受ける政治的メッセージとしてそういう言葉を発しているにすぎないのです。
能の公演に行くと、観客の多くは謡の本を持参していて、舞台よりももっぱら謡本の方を眺めていたりします。お稽古ごととして能や謡が今も生きているということは分かります。しかし、舞台芸能としてはこれはどうなの?と思ってしまいます。
私の住む街では、秋に大掛かりなお祭りがあります。本来は、その町に住む人が自ら山車を引いて参加するものですが、もうずいぶん前から人手が足りなくて、他所から人を連れてきてかろうじて成り立っています。街の中心部の人口が減り、高齢化も進む中で、参加をあきらめるところも出てきています。
このお祭りを続けていくためには、ある程度の予算がどうしても必要です。では、それは誰が出すのか。観光の目玉ではあるものの、町単位で神社に出し物を奉納するという枠組みの中で、自治体が全部負担するのはちょっと違うと思います。何より、担い手がいないことには何も始まりません。
伝統文化がこういう形でかろうじて生き残っているということをどう捉えるのか。後継者と予算の問題を真剣に考えれば、こういうお気楽な教材は出てくる余地がありません。
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