西海市立S中図書館

2025年8月22日金曜日

芸術か猥褻か

国内のあちこちで、裸婦をモチーフにした銅像が撤去または移設されているというニュースを見ました。子どもの目につく公共スペースに裸婦像があるのは不適切で、美術館など、それにふさわしい場所に置いた方がよいということらしいです。

報道によれば、全国各地に裸婦像が見られるようになったのは、戦前に作られた軍人の像が撤去された跡などに、ある時期、平和の象徴として女性の銅像を置くのが流行ったからだということのようです。平和でおしゃれな街には、西洋的な彫像がふさわしいと考えて設置したのでしょう。

裸婦像が、撤去されるべき猥褻物かどうかを客観的に決めるのは、難しいです。ある対象が猥褻かどうかは、それが置かれた文脈と、見る側の意識の両方に関わるからです。公共スペースという場所からして、それが猥褻さを表現しようと意図したものでないことは確かです。そうすると、見る側の意識がそれを決めることになります。一般的な感覚では猥褻でなくても、中学生男子なら猥褻と感じるかもしれません。また、誰かがそこに欲情を感じるかもしれないと想像すると、そのことが不快に思えるということにもなりそうです。

たとえそれが美術館の中であっても、まったく同じことが起こるでしょう。それを不快に思う人がいれば撤去するという考えに立てば、もう、裸婦をモチーフにした芸術作品は、倉庫に仕舞うしかなくなります。

私は、こうした動きが、学校図書館から、裸婦を描いた作品の図版の入った本を撤去するというような方向に向かわないことを願っています。よからぬ妄想をしながらそれをのぞき見る中学生が少なからずいたとしても、です。

芸術作品として考えるなら、その作品が優れたものであるかどうか、という点だけが問題です。猥褻と感じられるかどうかは、関係ありません。どうでもいい作品なら、図版であっても実物であっても、なくていいです。一方、価値ある作品なら、いつでも参照できるようにすべきです。作品の価値は、多くの優れた作品に触れることで分かってくるものです。しまい込まれたままの作品がいくらあっても、意味をなしません。

フロイトは、19世紀の上流階級の女性を診察する中で、抑圧された性的なものが彼女たちの神経症の原因だと考えました。そこから、性の抑圧から解放することこそが人間を幸福にするという思想が生まれました。フロイトの理論は、現代の心理学ではあまり評判がよくありません。もはや、科学として真面目に取り上げてはもらえないようです。しかし、無意識が人間の行動を支配するという彼の発見は、今でも広く受け継がれています。精神分析の考え方は、文学や芸術の領域には、特に強い影響を与えてきました。

そうした考えに基づくと、裸婦像が当たり前のように駅前広場に飾られているのは、抑圧から解放された人間の精神の象徴として、とても素晴らしいことだということになります。そうした考えに誰もが深く賛同していたわけではないにしても、それは戦後のある時期、時代の空気としてはっきり存在していたと思います。それが、現代では忘れられてしまい、裸婦像に違和感を感じる人が多くなってきたのだろうと思います。(銅像のモチーフが極端に女性に偏っているのは、こうした理論や思想が、男性の視点から作られたものであるから、という気もします。そこに引っかかりを感じる人もいるかもしれません。)

私の地元には、平和の象徴として作られた有名な銅像があります。県内では最も名のある彫刻家の手になるものですが、あれは作品としてはこの上ない駄作です。あんなもので公共の空間を大きく占拠することに感じる不快感は、裸婦像に対するものの比ではありません。でも、現実問題としては、撤去するのはほぼ不可能でしょうね。

全国各地にある巨大な観音像や、政治家の胸像なども、公共のスペースには勘弁してほしいものの一つです。(観音像は多くが私有地に作られていると思いますが、大きいものは外からもよく見えるので、公共の場所に置くのと同様の効果があります。)西郷隆盛くらいの人なら銅像を立ててもいいでしょうが(でも、もう少し小さめでもよかったです)、国会議員を長く務めたくらいで、銅像を立ててほしくありません。公共の空間にもし彫像を置くなら、作品として優れたものにしてほしいと思います。趣味が悪い上にやたらとでかいとなると、もう最悪です。

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