自分が年齢を重ねて分かったのが、十年・二十年くらいの時間は、瞬く間に過ぎていき、それくらいの過去は、つい昨日のことのように思えるということです。私が子どもの頃、両親から盛んに戦時中の話を聞かされましたが、両親には、戦争の記憶が、まだ生々しく残っていたのだと思います。
父は、軍隊に所属していたときに終戦を迎えました。兵隊になってまだ日が浅かったせいか、配属された部署のせいかは分かりませんが、前線に赴くことはなく、生き延びることができました。通信兵で、最後は福岡の部隊に所属していたらしいです。雲仙の仁田峠にもいたことがあると言っていましたが、時期などは分かりません。もっとよく話を聞いておくべきでした。軍隊にいたときに使っていたという電鍵(無線電信でモールス信号を発するために手もとで使うキー)や、銃剣銃の先に付ける剣の部分が家に残っていました。
父は、当時の若者にありがちな軍国少年で、終戦後は、一転して労働運動に身を投じていました。吉本隆明氏は、私の父と同い年で、同じ月の生まれですが、氏によれば、その世代の若者には、こういう思想的転回はごく普通のことだったようです。港湾労働者相手の事務的な仕事をしていて、結婚後、長く給料をもらえる方がいいという母の意見を聞いて役所に勤めることになり、安月給で、最後の数年を除くとあまり昇格もしていませんでしたが、退職まで勤め上げました。(高度成長期を通して、公務員の給与は世間のそれを大きく下回っていました。)
母は、終戦のとき高校生で、勤労動員中、長崎駅で原爆に被災したそうです。駅長室の勤務で、室内にいたため無事でしたが、屋外で働いていた人は数多く亡くなり、駅の構内で遺体を焼いたそうです。その年齢で多くの死体を目にし、それを目の前で荼毘に付すという経験の重みは、私の想像力を超えています。多くの知人・友人をなくしたせいでしょうか、生前、原爆祈念日の前日には必ず平和公園を訪れ、無縁仏がまつられている碑にお参りしていました。
私の生家は、駅にほど近い、港を見下ろす斜面地にありました。家の裏は崖で、私が幼い頃は、そこに防空壕が三つ残っていました。そんなに深い穴ではありませんでしたが、かろうじて家族が逃げ込む空間は確保されていたのでしょう。市内の至る所にそういう穴が残っていましたし、焼け野原だったところに建てられたのであろうトタン張りの掘っ立て小屋や、原爆で焼け落ちた廃墟がまだ片付けられずに残っていたのも記憶に残っています。中学生の頃、通学のバスが浦上天主堂の横を通っていましたが、教会の横の川沿いの土手で、原爆の爆風で吹き飛ばされた教会の鐘楼の屋根の部分が掘り出されていたことを思い出します。
斜面地には、長方形の砂岩で舗装された石畳の小径が複雑に入り組んで走っていました。今も、多少は残っていますが、大半はアスファルト舗装などにやり替えられています。中心部の歩道で、新しく砂岩の舗装に換えられたところもありますが、古いものは表面がすり減って角が取れており、新しいものとは雰囲気がまったく違います。石段も多いのですが、古いものは一段の高さがかなり低く設計されていました。
中心部を除くと、舗装されていない道路や空き地も多く、それが子どもの遊び場になっていました。小学校の裏の崖には、野いちごが生え、蛍がたくさんいました。
港には交通船が走り、対岸にある三菱造船所で働く人々を運んでいました。今のように橋は架かっていなかったので、交通手段として広い港内を何カ所も巡回するコースを走っていました。
その船は、夏休みになると、港の出口付近にある小さな島の海水浴場にも通っていました。方向転換することなく前にも後ろにも進むことができる船で、私にはそれが不思議でなりませんでした。船室中央のエンジンルームは半ばむき出しで、熱気がこもっている上に、ディーゼルエンジンの燃料やオイルの臭いがきつかったです。
家の窓からは、港が見下ろせました。視線を少し北側に向けると駅があり、列車が出発するのが見えました。さらに北には三菱の製鋼所があり、いつも水蒸気の白い煙がもくもくと上がっていました。原爆で骨組みだけになって倒壊した工場が再建されたものです。その後、製鋼所は閉ざされ、その跡地には、今はサッカースタジアムができています。
港の最奥部は漁港で、水揚げ場と、その横に大きな水産会社のビルが建っていました。現在、県庁が建っているあたりです。水揚げのとき、魚はベルトコンベアで運ばれていましたが、たまにコンベアからその辺にころがり落ちていました。それを拾って、子どもたちは釣りの餌にしていました。そんなところで子どもが遊んでいても叱られない、大らかな時代でした。その後、漁港は郊外に移転しました。港内の水は、今よりずっと汚くて真っ黒で、ゴミがたくさん浮かんでいました。街の中心を流れる川も、同様に汚かったです。
長崎駅前は、私が幼稚園児の頃、まだ信号もありませんでした。小さな駅舎と、駅前の広場があるだけの、田舎の駅でした。蒸気機関車が走っており、その音と煙が印象的でした。トンネルに入ると、煤が入ってくるので、乗客は一斉に窓を閉めます。閉めても、列車内の空気はあまりきれいではありませんでした。始発駅で、駅から一方向にしか列車は進みません。それがかなり特殊なことだと分かったのは、進学のために故郷を離れてからでした。
街の中心部は、今ではビルやマンションだらけですが、当時は、木造の商家が並んでいました。私の母の実家はその一角にある表具屋で、間口が狭く奥の深い造りでした。入口の横には、小麦粉で作った糊を入れる木をくり抜いて作った桶が置いてありました。小さな中庭があり、そこに井戸があって、スイカを冷やしたりしていました。雇われている職人さんたちも同じ家で暮らしていました。
今は観光の中心となっている南部の地区には、レンガ造りの倉庫や、木造の洋館が数多く残っていました。現在は、ほんの僅かだけが生き残って、観光資源となっています。市内随一の観光名所の一つである石橋群は、1982年の大水害で多くが破壊され、一番有名な眼鏡橋は復元されましたが、残りは、元のものとは似ても似つかない橋に掛け替えられました。昔の面影は、やや上流の小さな橋にだけ残っています。
スーパーマーケットなんてものはなくて、極小規模の店が並ぶ市場が街の随所にありました。猫の額ほどの店舗が連なっており、狭くて急な階段が2階の居住スペースに繋がっていました。調味料は量り売りで、豆腐は鍋を持って買いに行くという時代です。
ボンネットが前に大きく出ているバスや路面電車、トラックは走っていましたが、乗用車は少なかったです。母の実家には小型の三輪トラックがあり、従兄弟らと荷台に乗せてもらったことがあります。乗車定員は、今のように厳しく定められていなかったかもしれません。
テレビはまだ普及しておらず、幼稚園では、NHKラジオの教育番組を聴く時間がありました。幼稚園で平仮名の書き方を教わったのですが、私は、文字の持つ意義がよく分からず、とまどっていました。自分の名前だけはかろうじて書けるようになっていて、遠足の絵を描いた画用紙の裏面に署名しました。
私が小学生の頃、週刊の少年雑誌が二つありました。その中に、戦争を題材にしたマンガがいくつかあったことを覚えています。筋書きは忘れましたが、戦闘機が敵機を撃墜するとか、日本の軍艦や潜水艦が活躍する内容だったと思います。第二次世界大戦で用いられた軍艦や戦車、戦闘機は、プラモデルにもよく取り上げられていました。零戦や戦艦大和は当時も人気でした。無条件降伏したものの、国民の心情としては、敗北を全面的に受け入れてはいなかったのかもしれません。
駅や街角には、白い服を着た傷痍軍人が物乞いをする姿もありました。小さなアコーディオンを持って、独特の哀愁を帯びた歌を歌っていた人もいたと思います。義足に松葉杖といった姿で、少し怖くもあり、子供心に、あまり近寄ってはいけないと感じていました。
祖母の世代の女性はいつも着物姿でした。祖父も、家に居るときは浴衣で、下着はふんどしでした。
電柱は木製、電灯は白熱電球で、記憶にはありませんが、当時の夜景は今とはまったく違っていただろうと思います。台所にはかまどがあり、ご飯を薪で焚いていました。正確な時期は忘れましたが、ある日東芝製の電気炊飯器が登場し、母の仕事が劇的に減りました。たらいと洗濯板、固形石鹸のセットも、いつからか洗濯機と粉石鹸に取って代わりました。
正月前には、家の前で餅つきをやっていました。前の晩、遅くまでかかって、母が大量のモチ米を仕込んでいました。その日のために臨時のかまどを作って米を蒸すのですが、釜が割れないように大根を入れるのだと祖父が言っていました。時間が経ったモチは、大きなカメに水を張って保存していました。
小学校の校舎は、木造2階建てでした。体育館やプールはなくて、卒業式は講堂で行われていました。全校集会は、暑くても寒くても校庭でした。机は、杉板の天板に黒っぽい色が付けられたもので、最初は二人がけでした。黒板は、文字通り黒色でした。宿題などはほとんどなくて、そろばんや習字の塾はあったと思いますが、大部分の子どもは、学校帰りには、毎日暗くなるまで友人と外で遊んでいました。
思い返すと、当時の情景がとりとめもなく蘇ってきます。子ども時代の時間はとてもゆっくり流れていて、一つ一つの景色が脳裏に鮮明に焼き付いています。
最近は、血の気の多い人が増えてきて、敵に先制攻撃をする力を持つべきだとか勇ましいことを言って、軍備を拡張しようという動きにはあらがいがたいものが感じられます。いくつもの戦争を繰り返した挙げ句に味わった苦々しい過去の記憶が、人々の意識から消え去りつつあるのだろうと思います。それが、長く平和が続いた成果の一つなのだとしたら、嘉すべきことかもしれません。
しかし、どんな大義名分のある戦でも、多くの人が傷つき、死にます。身近な人がそういう死に方をするのは絶対嫌です。もちろん、自分自身が痛い思いをしたくないし、敵味方を問わず他の誰にもさせたくないと強く思います。
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