学校で、教科書を使って、様々な徳目を学ばせれば、道徳的な人間が育つ、という発想はどこから来るのでしょうか。
学校の授業で、生徒達は、周囲の雰囲気や教師の意図を忖度した発言をしがちです。教科においてもその傾向があるのですが、道徳となるとそれがいっそう強くなります。
学校における「正解」はときに世間の常識とは食い違ってしまうこともあります。
最近、あちこちの学校で「ワンストップあいさつ」というのがはやっています。人とすれ違いざまに挨拶するのですが、そのとき、立ち止まって挨拶をしようというのです。
今まで、私の赴任した学校は、3校連続でこの「ワンストップあいさつ」を取り入れていました。学校長が提唱する学校もあれば、生徒会がそういうあいさつをしようという運動をしている学校もありました。
それでも、100%の生徒が立ち止まるわけではありませんでしたが、現勤校では、校門に向かう坂道で生徒とすれ違うと、見事にみんな立ち止まって挨拶をしてくれます。
現実世界では、挨拶のとき立ち止まるかどうかはケースバイケースだとは思いますが、立ち止まる場面はそう多くないでしょう。特に用事でもなければ、すれ違うときは軽く会釈をして通りすぎるのが一般的ではないでしょうか。
このように、現実的でないことを堂々と推奨する転倒した学校文化の中では、道徳的な人間を育てるには徳目を教えたらいいじゃないか、ということになるのかもしれません。極めて安直な教育観と言わざるを得ません。
学校の授業で、生徒達は、周囲の雰囲気や教師の意図を忖度した発言をしがちです。教科においてもその傾向があるのですが、道徳となるとそれがいっそう強くなります。
学校における「正解」はときに世間の常識とは食い違ってしまうこともあります。
最近、あちこちの学校で「ワンストップあいさつ」というのがはやっています。人とすれ違いざまに挨拶するのですが、そのとき、立ち止まって挨拶をしようというのです。
今まで、私の赴任した学校は、3校連続でこの「ワンストップあいさつ」を取り入れていました。学校長が提唱する学校もあれば、生徒会がそういうあいさつをしようという運動をしている学校もありました。
それでも、100%の生徒が立ち止まるわけではありませんでしたが、現勤校では、校門に向かう坂道で生徒とすれ違うと、見事にみんな立ち止まって挨拶をしてくれます。
現実世界では、挨拶のとき立ち止まるかどうかはケースバイケースだとは思いますが、立ち止まる場面はそう多くないでしょう。特に用事でもなければ、すれ違うときは軽く会釈をして通りすぎるのが一般的ではないでしょうか。
このように、現実的でないことを堂々と推奨する転倒した学校文化の中では、道徳的な人間を育てるには徳目を教えたらいいじゃないか、ということになるのかもしれません。極めて安直な教育観と言わざるを得ません。
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