道徳の授業が徳目を教えるものだと言ったら、文部科学省のお役人は、そんなことを目指してはいないと強く否定するでしょう。
ところが、唯一の正解を求めたがる学校文化の中では、道徳もまた、「正しい」答を出す場になってしまいがちなのです。
学校における「問い」は特殊なものです。「答」を知っている教師が、「答」を知らない生徒に問うという、考えてみれば不思議な「問い」なのです。一般に、問いを発するのは、何かが分からないときなのですが、学校では違うのです。
生徒指導の場面でも、教師は生徒に「問い」を発し、生徒自身の口から「正しい」答を導きだそうとします。それが上手な生徒は教師の受けがよく、いつまでも「正しい」答を言わない生徒は厄介者です。
教師は、教室の中で権力者であり続けるために、この特殊な「問い」を問い続けます。生徒は、教師の顔色をうかがいながら、何が教師を満足させる答なのかを探します。
生徒がこのゲームから逃れるためには、引き替えに、教師からの評価を失ってしまうというリスクを冒さなければなりません。
荒れた教室というのは、多数の生徒がこのゲームに参加することを拒否している教室のことです。一見静かで平和に見える教室の中でも、生徒の中にいる陰の実力者の影響で、生徒が実質的に授業に参加しない場合があります。その実力者の気に入らない教師の前でだけそうなることも珍しくありません。その教師から何か注意を受けたとか、そうした類の事情が背後にあったりします。
このように、バイアスのかかった問いに支配されている教室の中では、まともな学びは成立しません。まず教師が、その特権的な地位をあきらめて、「問い」の質を変えていかなければなりません。当然、生徒に大量の「正しい答え」を注ぎ込むようなやり方は放棄しなければならないのです。
ところが、唯一の正解を求めたがる学校文化の中では、道徳もまた、「正しい」答を出す場になってしまいがちなのです。
学校における「問い」は特殊なものです。「答」を知っている教師が、「答」を知らない生徒に問うという、考えてみれば不思議な「問い」なのです。一般に、問いを発するのは、何かが分からないときなのですが、学校では違うのです。
生徒指導の場面でも、教師は生徒に「問い」を発し、生徒自身の口から「正しい」答を導きだそうとします。それが上手な生徒は教師の受けがよく、いつまでも「正しい」答を言わない生徒は厄介者です。
教師は、教室の中で権力者であり続けるために、この特殊な「問い」を問い続けます。生徒は、教師の顔色をうかがいながら、何が教師を満足させる答なのかを探します。
生徒がこのゲームから逃れるためには、引き替えに、教師からの評価を失ってしまうというリスクを冒さなければなりません。
荒れた教室というのは、多数の生徒がこのゲームに参加することを拒否している教室のことです。一見静かで平和に見える教室の中でも、生徒の中にいる陰の実力者の影響で、生徒が実質的に授業に参加しない場合があります。その実力者の気に入らない教師の前でだけそうなることも珍しくありません。その教師から何か注意を受けたとか、そうした類の事情が背後にあったりします。
このように、バイアスのかかった問いに支配されている教室の中では、まともな学びは成立しません。まず教師が、その特権的な地位をあきらめて、「問い」の質を変えていかなければなりません。当然、生徒に大量の「正しい答え」を注ぎ込むようなやり方は放棄しなければならないのです。
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