西海市立S中図書館

2019年9月3日火曜日

英語教育の改革

最初に言い訳するのもなんですが、専門外のことで、事態を正確に理解していないところがあるかもしれません。あしからず。

さて、改革された大学入試の本番が近づいているというのに、英語の外部試験からTOEICが撤退するなど、まだ定まっていない部分が多くて、次年度の受験生がざわついているようです。余談ですが、最初は外部試験の要件を満たしていないということだった英検(中・高と、公立学校を会場にし、英語教師が監督を務めて行われることも多い試験です。)は、新しい試験のやり方でいつの間にか返り咲いていました。

英語を実用的なレベルで使うには、話す・聞く・読む・書くの四技能が必要で、大学入学に際してそれらすべてを求めるという考え方は間違っていないと思います。入試がそのように変わることで、センター試験に出題されている、読む・聞く中心だったであろう高校の授業は変わらざるを得なくなります。

一見、もっともらしい改革に見えますが、話す・書くの表現力が日本の学校で育たない大事な要因が見逃されているように思えてなりません。

その一つは、昨日書いた、日本の学校に根深い、正解至上主義とでも呼ぶべき傾向です。これは、例えば、文字の書き方、単語のスペリングや発音、文法にかなった表現すること等々を重視するあまり、結果として表現の中味は二の次となってしまうという事態を生んでしまいます。

小学校から英語教育を始めるという愚策も、同じ問題点を含みます。英語活動として楽しく英語に触れるというくらいならよかったのですが、教科にしてしまうと、事態が一転してしまうことは想像に難くありません。

結果として、表現力が育つどころか、英語が嫌い、英語が苦手と小学生のうちから感じてしまう子どもを増やしてしまうことでしょう。すでに、そのような傾向を感じている小学校の先生もいるようです。小学校の国語の内容に古典教材が取り入れられたときも、同じようなことが起こりました。

さらによくないのは、小学校の教師のほとんどは、英語教育者としての素養を持っていないということです。外国語の学習をどのように始めるかは、学習者のその後を決定づける大切な要素の一つだと思いますが、それを素人に任せようというのです。任された側もさぞや困惑していることでしょう。

平均的な日本人の英語表現力が、いくらやっても実用的なレベルに到達しないもう一つの要因は、そもそも、会話的なコミュニケーションを重視する文化が欠落していることです。その一方で、ネイティブのように英語を発音できることがとても重視されたりする。

小学校から教科としての英語を始める、大学入試の英語のやり方を大幅に変える、このいずれの方策も、日本人の英語によるコミュニケーション力を飛躍的に高めることはなさそうに思えます。

英語教育を変える以前の問題として、ここでも、学校教育の質の根本的な変革が課題なのではないでしょうか。

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