3月で再任用の5年間が終わり、仕事探しをしていたのですが、今週から市内の小さな小さな中学校(小中併設です)の臨採として働いています。2か月ほどの予定です。
この学校の司書から、昨年までの貸出数を見せてもらったのですが、びっくりするほど多かったです。何でも、現3年生に本好きの生徒がいて、一人で平均を引き上げてきたようです。それにしても多かった。
さて、そこの図書館に『新長崎市史』があったので、中島小学校のことを調べてみました。『新長崎市史』の記述は、概ね前回書いたことと重なりますが、分かっていなかったことがいくつかはっきりしました。
まず、最初に作られた場所が新大工町だったこと。そこから伊勢町に移転し、名前が「中島小学校」になって、その後、明治10年に勝山小学校と合併したという記述がありました。
となると、私の知人のお母さんの記憶は誤りだったということになります。明治10年にはまだその方は生まれていません。その方が行ったのは、おそらく勝山小か磨屋小だったのではないでしょうか。なぜ、ほんの数年しか存在しなかった中島小学校という言葉が、その方の口から出てきたのかは不思議ですが、このことは、私の知人には伝えなくてもいいかなと思っています。
『新長崎市史』の表記は、原則常用漢字だそうで、「旧川小学校」が出てきました。やはり、現東古川町にあったようです。それにしても、「旧川小学校」と「舊川小学校」は同じ学校ですかねえ。読みやすさを重視したのでしょうが、歴史書なんですから、固有名詞は本来の字体で書くべきじゃないでしょうか。
『新長崎市史』を読んでいたら、長崎市に学制に基づく学校ができてから、数年の間に、近郊も含めたあちこちに、続々と小学校が造られたことが分かりました。津々浦々に、と形容するのがぴったりという印象です。その事実だけで、明治時代の人々の近代教育に掛けた熱情が伝わってくるように思いました。
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