長崎市北部に住む86歳の知人から、100歳を越えるその人の母親(存命)が、昔、長崎の中島小学校というところに行ったことがあると言っていると聞きました。今で言う県小大会のような大会があって、それに参加するためだったそうです。大村湾を伝馬船で渡り、それから歩いて行ったようです。
その人から、長崎にそんな学校があったのかと尋ねられ、すぐには答えられなかったのですが、帰宅してからネットで検索し、関連の各種資料を集大成した『長崎年表』にたどりつきました。
明治7年の項目です。学制の発布を受けて、長崎に三つの学校が造られました。それが翌年改名します。『長崎年表』から、以下引用です。
01/01★第1番向明小学校が勝山小学校と改称
→1901(明治34)03/10☆勝山尋常小学校と改称
01/01★第2番小学啓蒙校が奮川小学校(のちの磨屋小学校)に改称
→1886(明治19)02/☆長崎町年寄薬師寺某の邸宅213坪を買収
中等鶴鳴小学校(尋常鶴鳴小学校?)と改称
01/01★楓川学校が中島小学校に改称
→1875(明治08)☆旧川小学校が榎津町に移転、榎津小学校と改称
ここに出てくる「奮川小学校」は、『二村一夫著作集』「高野房太郎とその時代(7)」にある次の記述と重なります。
明治7年になると、啓蒙学校は舊川小学校と改称され、(後略)
「舊」は「旧」の旧字体ですので、先の引用部分の最後の行の「旧川」小学校というのは、このことではないかと思います。『長崎年表』明治8年12月には、
★奮川小学校が榎津町に移転、榎津小学校と改称
とあるので、つじつまが合います。今も古川町という地名が残っていますので、「奮川」は、「舊川」の間違いではないかと思われます。
中島小学校は、市内でも最も古い小学校の一つだった訳です。最初の3校のうち、他の2校はそれぞれ勝山小学校(現桜町小)と磨屋小学校(現諏訪小)の前身のようですが、中島小学校がその後どうなったのか、ネット上ではよく分かりませんでした。
『長崎年表』を読んでいると、その時代にタイムスリップして行ったような気分を味わえます。こういうのが面白くなるのは、歳を取ったせい?
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